2010年12月17日金曜日

KING KONGオーナーのつぶやき....【総集編】

音楽のダウンロード販売のせいでCDが全然売れないって言われてるけど、ダウンロードはほとんどが携帯からで、それもレゲエとかだとボブ・マーリーだけなんだって。本当に音楽は死んでしまったのかな? 


i−Tuneは爆発的に売れてるけどアメリカでは1曲99セントで利益なし。アップルがi−Pod売るためのサービスなんですよね。やっぱり音楽は儲かってない。


同じ業種で30年以上続くのは1%しかないんだって。キングコングは31年目。


日本のレコード店の中でおそらく最も仕事のセンスがいい人は、若くして亡くなったフォーエバーレコード創業オーナーの宮下さん。 宮下さんがもし生きておられたら日本のレコード店業界は確実に違っていた。 もっとかっこいい業界だった。絶対間違いない。
 

その宮下さんの葬儀の日に車で会場へ向かった時、お店のシャッターに貼ってあった会場への道順を見てたら向こうから小太りの人が会場を探しにやってきて、近 づいて来たら大瀧詠一さんでした。一緒に車でお送りしたら会場には山下達郎さんや竹内まりやさんもいました。そんな方でした。 


サムズレコードショップの佐藤さんとフォーエバーレコードの宮下さんとキングコングの回陽はレコード屋を始める前からの知り合いでした。大学も一緒でした。その頃3人ともレコード屋を始める目標なんてなかったです。 


僕はアンディ・ウオーホルに会った事があります。どうだ。 


大阪は「イカ天」を放送してなかった全国唯一の都市なのです。全国的に「イカ天」が燃え上がってた頃、大阪で育っていったのがボアダムスとか竹村延和君。「イカ天」を大阪にネット拒否した放送局の編成部に感謝。できれば名乗り出て下さい。 


「全国唯一」に自信がなくなりました。でも当時は関係者からそう聞いていたのでほぼ間違いないです。大阪以外でも放送してなかった都市の方がいたら教えて下さい。 


もう一つ訂正。もし大阪で「イカ天」を放送しててもボアダムスや竹村延和君の音は変わらなかったと思います。そんなヤワな人達じゃないです。念のため。 


昔 そういや大阪にはライブキングっていうバンド勝ち抜き番組があったなあ、ルイマリー(TM REVOLUTIONの西川貴教がいた)が優勝してデビューしたなあ、ありじごくが出てきたときは衝撃やったなあ、『金属バットを握りしめ愛していたんだ お母さーん!』って歌うんやもん、たまげた! 


ボアダムスの山塚(アイ)君のテープを初めて聴いたのは彼がオフマスク00の秋井君と一緒にコタツの中で録音したというド叫びのもの。その凄さにびっくりして、その後の山塚君のテープは全部扱わせてもらいました。今となってはキングコングの誇りです。

村八分のステージは何回も見たよって言ったら若いロックファンに尊敬の目で見られるって気が付いてから、こればっかり言ってるけど同じ人に何度も言ってしまうのは、やっぱり年のせい?村八分見たって言う人はもう物忘れというより記憶障害があるほどの年齢なんですよ。 


村八分の話で思い出したけど60年代の野外ロックコンサートなんかではおっぱい丸出しで踊ってた女の子がいたけど、あの人達って今はもうアラ還。目に焼き付いている画像を消したい。 


77年の10月頃1ヶ月程ニューヨークにいました。CBGBではまさにニューヨークパンク炎上の年。と言っても始めてCBGBに行った時、10m手前で恐くて帰りました。あと10mが進めないほど当時のニューヨークは恐かったです。 


あのライブの日に見てました。細くて小柄なプロデューサーのミッキー・カーチスさんが会場の拾得の中を走り回ってて「OK!」「テープいい?」とか叫んでてお客さんは録音の傍観者みたいに置き去りでした。 RT @funkyossy外道とかも見たことありますか? 


横 浜のUHFの番組に生放送で演奏していたアマチュア時代のキャロルをテレビで見ていたミッキー・カーチスさんが放送中に電話でマネージャーと契約してし まって、現場にいた内田裕也さんが番組終わってからマネージャーに契約しにいったらもう取られていたそうです。教訓深い話です。 


コーラが大好きな僕もこれを見ると・・・http://labaq.com/archives/51197015.html 

某レコード店の方が毎日コーラ2リットル瓶を飲んでて亡くなりました。このツイート、コーラ会社からの圧力かかるかな。 


以前ビーチボーイズが伏見桃山城の広場でコンサートの時、前座のハートの途中に集中豪雨でステージの屋根が落ちて中止。当時の女の子はノーブラに白のTシャツがほとんどだったので目の前に数千個のおっぱい。このレベルになると興奮というより可愛いかった。 


アメリカへ買付へ行くレコ屋さん。コーラも恐いけどデイリークイーンのシェイクはスプーン26杯の砂糖が入ってるそうです。 


4月18日は全世界でレコードストアデイ!去年はコケたので今年こそって思ってたけど日本の窓口の人から何の連絡もないからもうやらない! 


何も言わずに少年ナイフのCDかけると外人が「それ誰?」って反応するんだって。外国人受けするってどこが違うのかな。


少年ナイフってニルバーナのイギリスツアーのサポートやってたらしいけど、去年の秋にもアメリカ30公演、ヨーロッパでもかなりな数のライブに呼ばれてて世界的にはすごい位置にいるんやね。アメリカのレコ屋でも知らない人はいない。 



エレクトリック・イール・ショックもライブはほとんど外国。グループサウンズ世代の僕はもう感心するばっかり。 


大阪ロックデイにはその少年ナイフもエレクトリック・イール・ショックも出ます。 


こんなに外国で活躍してるバンドって他に誰がいるの? 


片 付けられない症候群の僕は本と雑誌で埋まった部屋が片付けられなくて、いつもまだ読んでない本が気になるし、読んだ本は名残があって捨てられないし、結局 は読んでない本を選んで捨てるのが一番と悟って捨てたら部屋にかなり空間ができました。もったいなかったけどもうアマゾンで本は買わない。 


村八分のライブレコードの日には昼のリハーサルから全部見てました。かなり出来のいい和風の曲なんかも作ってたけどレコードには入ってなかった。村八分の姿勢がわかります。

村八分のライブレコードは今の人はかっこいいって言うけど、当時の村八分のステージをたくさん見ていた僕としてはあのレコードはかなり出来が悪い。 


村八分を世に出そうとレコード会社の説得に奔放して走り回ってたのは去年亡くなった加藤和彦さん。加藤さんが日本の音楽界に残した足跡は本当に深い。 


村八分のライブレコーディングのステージを僕は8mmで撮ってます。でも暗くてほとんど写ってない。チャー坊の踊る姿がかすかに見えるだけ。残念。 


東京で村八分とキャロルのジョイントコンサートの企画があったけど、キャロルが断ったらしい。ジャンルが違うからと言うよりは多分負けそうだったからだと思う。 


当時どっかのロックコンサート会場でリーゼント族とロングヘアー族の大喧嘩があったけど勝ったのはロングヘアーの方。 


村八分の頃はバンドの拠点は喫茶店でした。村八分の拠点は銀閣寺近くのZIGZAG(らしい)。数年前にはまだありました。 


村八分の当時は学生運動なんかの影響で「帰れ!帰れ」の帰れコールを無責任に叫ぶ人がいて、村八分は帰れコールが出たらチャー坊の「じゃ帰る」の一言で帰ってしまう。だから毎回3曲くらいしか見れなかった。 


京都烏丸のシルクホールで村八分は一度3人編成でアンプラグドをやってます。山口富士夫は12弦のアコギ使ってました。チャー坊のハーモニカとでかなり見物でしたが、この日も3曲で終わり。 


チャー坊こと柴田さんと電話で話した事があります。「村八分のコンサートをやりたいんですが」とお願いすると「今はそんな予定ないから」で終わってしまいました。 


いつもクスリでふらふらしてるイメージのチャー坊ですがコンサート後に帰れコールをやった男をステージに呼びつけて凄んでました。女の子のようなクネクネした踊りをする人でしたが、相当に頭も良くて男気の強い印象があります。 


本によるとチャー坊はありとあらゆるクスリをやったそうですが、たった一つ経験してないクスリがあって、それは飲むとテレパシーが出るものだそうで、そんなのあるんですね。

ギンズバーグが言ってるように「ドラッグの使用とは人の心の奥を探るための非常に辛い作業」で、当時のクスリとはそういうものでした。 


でも結局はチャー坊もクスリで亡くなってしまいました。 


あえて言いますが僕はクスリの使用は大反対派です。体を壊すのは勝手ですがわずかな事で死にます。知り合いも数人死んでます。死ぬほど勿体ない事はないのです。才能も経験も全部消えてしまうのです。ダメ絶対ダメ。 


村 八分のような表現をするバンドはたくさんいますが、みんな村八分を見て影響されたバンドです。時代の順番に見て来たのではっきりとわかります。バンドの名 誉のために名前は言いませんが、それほど影響力があるのです。でもそれは悪い事でもなさけない事でもないです。それでいいのです。 


僕は村八分のライブのレコードを持ってません。僕が持ってたレコードは今は山口富士夫さんが持ってるはずなのですが・・・。 


ストーンズのギミーシェルターで「かっこいい!」という声が聞こえるのはチャー坊なんだって言う話は嘘らしい。 


村八分に影響されたバンドは多いけど村八分もストーンズに影響されてた印象は否めない。

渋谷陽一さんが村八分だけが日本で唯一のロックバンドと言えるって書いてたけどロックと言う意味からすると、やっぱりその通りだろうなあ。 


村八分とハッピーエンドは時代的に全く同じ。両方とも日本語の歌詞のロックバンドだったけど、当時のミュージックマガジンはハッピーエンドを日本一のロックバンドに選んだ。チャー坊の歌詞ほどのロックは他にないと思うけど。 


その時、内田裕也は怒ったねえ。フラワー・トラベリン・バンドよりなんでハッピーエンドなんだってね。 


その後、カナダに呼ばれたフラワーが帰って来た時のコンサートには本当に体中が爆発した。日本にいた時より1000倍くらい成長して帰ってきた。あの時点ではほんとに日本一でしたよね裕也さん。 


あれ?村八分の話がそれてしまいました。 


村八分の話をしてほしいって言ってた沢山の方々。これでいいですか?まだまだあるのでまたいつか。感想下さいね。 


キングコングの倉庫にはスタッフが絶対売れないって言う12インチが山のようにあるのですが試聴できるようにしてホームページにUPしたら買ってくれますか? 


アメリカの某所に12インチを100枚づつ箱詰めして20箱位づつパレットに乗せてリフトで上下2段に積んで、約20列以上向こうまで並んでいました。その景色にメゲてチェックやめました。こんなのでも全部試聴したいですか? 


当たりです。有名なとこですよね。でもキングコングが行ったのは15年位前。今でも同じ状況ですか?あそこの社長にはビジネス的にかなり世話になりました。RT @hisataakaa NJかな? 


いやあ、15年前にも3時間くらい掘ったのですが出ませんでした。RT @hisataakaa @kingkong_music 何年か前にどなたかが泊まりがけで全部掘ったそうです。 



アメリカ買付に関しては僕の師匠のマンハッタンレコードの社長の逸話はすごいですよ。半端じゃないです。アメリカ買付の開拓者ですから。RT @hisataakaa ただ、あの光景は凄いものがあります。 



あ、そうか。リンクで読めるんですね。 @sob_tokyoさん。初心者なもので。 15年位前に2度行きましたがあのスコーピオの作業システムは当時感心しました。 



スコーピオは全米の卸業者のレコ屋からの返品物を安く買っている業者で、レコードの時代には卸業者にとっては返品を還金できるありがたい業者でした。返品の中にとんでもない廃盤が混ざっているのですよねえ。 



そのスコーピオから毎月日本全国のレコ屋に一斉にリストが送られてきて、日本中のレコ屋はとにかく早いもの勝ちなのでリストを大急ぎで廃盤やお得な廉価盤をチェックして大急ぎでポストに投函してました。 



当時はまだファックスはなかったのです。郵便はアメリカまで1週間ほどかかりました。

ところが、かのマンハッタンレコードの社長は真っ先に電話で注文しておいしいとこを全部かっさらってしまうのです。ここが違うとこなのです。 



なんでみんな電話しないのって思うでしょうが、当時国際電話なんて思いつきもしない別世界の通信でした。料金も高いし。 



高いといっても商売的には計算は合うのですが、とにかく人より一歩早い!これがその後のヒップホップのマンハッタンレコードに成長した違いなのです。 



マンハッタンレコードって世界で一番ヒップホップを売ったレコード店なのですよ。知ってました? 



カーリング見てると、この人達と賭けビリヤードはやりたくないなって思う。スゴい!!

クレイジーキャッツのネタでしくじった部下に上司が「チミ〜、稚内に席が空いてるんだけど〜」って言うのがあったので稚内って地の果ての何もない土地だと思ってた。 



稚内のイメージは草原にJRの単線の屋根もないプラットホームだけの駅があって看板が一つ「わっかない」て書いてあるだけを本気で想像してた。 



札幌から車で5時間。初めて稚内に行ったら郊外に「靴流通センター」があるほどの小都会だったのでびっくりした! 



どれくらいの都会かって言うと、駅前に1軒、中古レコード屋がありました。(ここでびっくりした人、何人?) 



悪いけど、僕一人で先に掘りました。 



「ジャネット」を1枚だけゲット。知ってます?オフコースの大間さんと松尾さんの元のバンド。キングコングならではの収穫です。 



その夜は「ホテルサハリン」に泊まりました。札幌でレンタカー借りて日帰りも可能な最高のコースです。 



キングコングと言えば「アメリカ村」。ここでもう31年。確信はないけど、キングコングより古いのは「グロウ」だけ。くそっ!うちより3ヶ月古いだけなのにうちがアメリカ村で一番古いって言えない。 



アメリカ村は若い子が多いから適当に店を出したら売れるだろうと言うのは大間違い。だから3ヶ月で閉める店が多い。 



アメリカ村には若い子が全国から集まる。その事がどんなパワーを秘めてるのかわかってる人は少ない。 



ファッションに限らず、若い人達にここで認められると合格。原宿でスカウトされるより厳しい。だからライブハウスやクラブが相当沢山ある。ここはデビューする街かな。 



78〜9年頃が最初のピーク!ほんとにすごかったです。本当に日本で最高の若者の街だった。ファッションも音楽もこの街が全国一のステージでした。 



ここでデビューできればOK!成功者はあらゆるジャンルでいっぱいいるけど反面うまくいかなくて絶望する人も多い。僕の回りで絶望して自殺した人が5人。チャラい街じゃない。

全くの新人だったダウンタウンが三角公園で漫才をやった。公園内は爆笑の渦。僕も笑いころげた。アメリカ村を完全制覇。あの人達の闘争心はただものではない一種の狂気があった。 



三角公園の向かいにあった喫茶「ループ」のカウンターで吉本興行に入りたかった若き間寛平さんが働いていた。吉本の人が来てお願いするとじっと顔を見て「う〜ん、顔だけで5分笑えるなあ」で合格! 



初期のラフィンノーズが三角公園でアンプを持ち込んでライブをやった。告知はキングコングに貼ったチラシ1枚だけ。公園ライブはマスコミに載るほどの大盛況。記念のソノシートは公園では危険なのでキングコングで配ったら店からパンクスの山があふれた。 



アメリカ村は82年頃サーフブームも去って少し人離れ。そこで「遊びたくなる街を作ろう!」というグループ「アメリカ村ユニオン」結成! 



ア メリカ村ユニオンは「ループ」「パームス」「ライフ」「クラブクー」のプロデューサー日限(ひぎり)萬里子さん、現FM802のDJのマーキー、マリアテ レサの平井さん、それと僕キングコングの回陽の4人を中心に活動。商売のことは考えない。おもしろく遊べる街を作るのが唯一の目的。 



まずはユニオンに参加してくれるお店をマーキーと二人で回った。その頃アメリカ村にあったお店は100店舗。今は2500店だとか。 



まずは公園を中心にイベント「アメリカ村カーニバル」を開催。バリダンス・太極拳などおよそアメリカ村のイメージとは違う出し物ばっかりノーギャラで。新聞の応援もあってこの日アメリカ村に集まったお客さん5万人と警察発表。 



とにかく久しぶりのスゴい人出。しばらくアメリカ村を離れていた人達が帰って来た。
 


この日をきっかけに毎日徐々に人が戻ってきて、そのまま増えていく一方だった。イベントが街を戻した、おそらく全国で唯一の成功例。どこでも街起こしイベントはよくあるけど単に一過性になるだけ。 



人が戻って定着したのはやっぱりアメリカ村が若い人達にとって意味ある街だったから。キングコングがいつまでもアメリカ村にこだわる理由も同じ。 



僕は「アメリカ村」を「アメ村」とは絶対言わない。「アメ村」とはバブルの頃、アルマーニ着てベンツに乗って行儀悪く足を投げ出しているお兄ちゃん達が使い始めた言葉。語源的に僕はどうしても使えない。 



アメリカ村では多分一番長い店「グロウ」の店の前にはレンタルの鉢植えじゃなくて、ちゃんと土を盛って水をあげながら花を植えている。やっぱりわかってるなあと毎日前を通りながら感心。 



グ ラフィティアートというかただの落書き。アメリカでは30年前に初期のヒップホップと同次元に発生した文化。アメリカ村では30年遅れたけど描きまくって た地域はアメリカ村の中だけだったのは犯人の意識がわかる。でも30年前のアメリカのマネなんて。あれはアートかピンポンダッシュか? 



だって、監視カメラが付いて何人か捕まったらすっかりやめてしまったもん。幼稚園児のピンポンダッシュって言われて腹が立ったら何か書き込んでよ 



アメリカ村ユニオンを作った日限さん(通称 ママ)は数年前、ガンで亡くなりました。亡くなる直前までNHKのテレビの特集で若者文化は守っていかないといけない事を話していました。 



日限ママの弟さんがアメリカ村のいろんな歴史をまとめた本です。http://www.amazon.co.jp/アメリカ村のママ-日限萬里子-日限-満彦/dp/4093877017/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1266939959&sr=1-1 



眠い・・・今日は書く元気ないので寝ます。明日は話題を変えてニューヨークでアンディ・ウォーホルに会った時の話でも書こうかな。 



アンディ・オォーホルの話と言うよりウォーホルがニューヨークを遊び回っていた頃のニューヨークの話。77年から78年の現地報告です。 



一昨日の2月22日はウォーホルの命日だってツイッターで初めて知った。ウォホールマニアの名が消えるかな。でも誕生日は僕と同じ8月6日。 



当時、イギーポップ見に行ったら前座がラモーンズだった。マービン・ゲイ見にいったら前座がアベレージ・ホワイト・バンド、リッチー・ヘブンスの時はスタッフ。そんなスゴい前座なんて広告にも書いてなかった、ものすごいサプライズ。 



イギー・ポップの公演のあと楽屋入り口で見てたらエリオット・マーフィーが出てきた。ラモーンズもステージのままの皮ジャンにGパンで出て来て、たしかデイヴィッド・ヨハンセンも出て来た記憶がある。狭い世界なんだなと思った。 



当時、ニューヨークではマリファナはまだ流行り始めた頃で、イギーのステージ中に葉巻のような太いのが回ってきて一服いただいた後は記憶消滅。ステージの事は何も覚えてない。

ジョン・レノンの住むダコタアパート前の公園ではマリファナ売りがいてみんな行儀よく並んで買っていたらジョン・レノンも並んでたんだそうで、ニューヨークの人達が有名人のプライバシーの邪魔をしない礼儀深さはいいな。この頃1回分ほどのジョイントで1ドルでした。 



77年のニューヨークパンク炎上の頃はCBGBは盛り上がり最高でリチャード・ヘルなんかはまだ客席をうろうろと歩きまわってた。 



いろいろ見たけどバッド・ボーイズのステージは最高。写真をいっぱい撮ったけどどのショットも全部決まりポーズでほとんどセックス・ピストルズを見たも同然な最高のステージでした。 



ニューヨークに着いたころ初めてDBGBに行った時は店の回りが恐くてあと10mで逃げ帰った。この日のステージはブロンディ。 



お目当てのパティ・スミスはツアー中で見れなかった。悔しかった〜。 



CBGBはいろんな音楽やってて、UKサブスの前座に素人のスティーブ・フォーバートが出たけど緊張してつっぱりっぱなし。こんな状態でスカウトされたりするのかなって思ってたら本当にCBGBでスカウトされてレコード出した。 



CBGBはヘルスエンジェルスのたまり場でもあったけど、腕の回りは岡崎朋美のふとももぐらいの太さがあって、もし殴られたら首がチョン切れて飛んで行きそうな感じで恐かった。 



当時、丁度トーキング・ヘッズが出て来てレコード屋にも赤いジャケットが並んでたけどTALKING HEADSって変な名前だなあと思っただけでステージに行かなかった。ほんとに残念。 



トーキング・ヘッズのレコード買って帰ったら友達がジャケ裏をながめて「このサイコ・キラーて聴きたいな」ってズバリ指摘。いい曲はやっぱり曲名までいいんですね。 



78年には解散直前のテレビジョンのステージを見たけどアンコールの1曲目にサティスファクションをやったのにイントロが終わってもトム・バーラインが出てこない。10分ほどイントロを繰り返したころにやっと出てきた。何してたんでしょうね。 



チープ・トリックがアメリカでの人気より先に日本公演の「武道館ライブ」が世界的にヒットしてしまった。その凱旋公演がレストラン兼ライブハウスのボトムラインであった。このステージ後に残った客の中に見つけたのがアンディ・ウォホール。



ウォーホルには影武者が何人かいるらしいけどマニアの僕にははっきり分かる。まぎれもなく本物のウォーホル。アメリカ人はこんなときでも有名人のじゃまはしない。興奮した僕は一応ポラロイドで一枚。遠くから。 



無口のウォーホルという評判はとんでもない。一緒に来ていたカップルに一人でしゃべり続け。画家はたいていおしゃべりが多いですよね。 



ジャスピンコニカとソニーのテープレコーダーはやっぱり持ってました。テレビでは「あ〜〜、イエス」「う〜〜ん、ノー」しか言わないのは会社が作ったイメージ戦略。ほんとによくしゃべる。 



しばらく眺めてたけど、5分くらいで僕は店を出てしまった。最高のウォホールマニアも刺激的ニューヨークをもっと見たい誘惑には負けてしまった。 



アンディ・ウォーホルに会ったよと言うとすごくびっくりされる事に最近気が付いて、またまたこの話ばっかりしてるけど、ウォーホルに実際に会った人てどれぐらいいるのかな?会った人は返信下さい。 



会うだけじゃなくて一緒に仕事をした人とかファクトリーに入った人とかもいるでしょうが、僕はただのファン。これで十分に嬉しかったです。 



帰国直前にボブ・マーリーのライブを見れてそのパワーに圧倒されたけど、日本では当時全く無名。僕はジョン・レノンの「70年代はレゲエだ!」という予言で当時レゲエやカリプソばっかり聴いていた。だからボブ・マーリーは知っていた。



約1年後、日本公演が発表されたけど無名のため最初はチケット全く売れず。ニューヨーク公演で超ショックを受けた僕は友達を説得して何人分かのチケット買いにいったら全員の分が最前列を取れた。 



公演の日までにはボブ・マーリーも知られて満席。さすがに客席はとんでもない盛り上がり。このすごさは「シカゴ」の大阪公演以来やなあと誰かが話してるのが聞こえたけど、ほんとにすごかった。 



シカゴは反体制色の強いグループで舞台からガンガン煽るから客席は暴動寸前。被害者はアルバイトの警備員。会場の中では唯一の敵だったからボカスコに殴られて、会場のイスなんて全部壊されてたんじゃないかなあ。 



突然ですが犬の散歩に行ってきます。続きはあとで。 



夜中12時半のお犬さまの散歩に行ってました。静かな近所では間違いなくアヤしい人です。お、フォーエバーレコードから書き込みが・・・ 



@forever_records RT @kingkong_music 御大に触発されて自分なりの見聞録でもポツポツ書こうかと思ったけど アカン、スケールが違いすぎる… なんせ金がなかったので・・・ 



フォーエバーさん、年の違いですよ。当時ニューヨークに3週間滞在して総経費30万円。そのうち大韓航空のチケットが23万円。2日に一度はライブ見て、ホテルはシャワー付きで一週間100ドル。僕が27才の時です。 



し かしヤバいホテルでした。タイムズスクエアにあるけど火事はあったし、エレベーターの中では売春婦に誘われるし、お兄ちゃんからは金をせびられるし、断っ たら首を締められるし、でもこの前何十年ぶりにいったら青春時代の僕がまだそこにいました。ギリギリだったので何もかもが楽しかったです。 



いまではそのあたりにディズニーストアがあるそうで、ニューヨークは本当にきれいで安全になったようです。でもあなどってはいけない。まだまだ新しい事が生まれるしパワーはあるようです。 



当 時、車にはねられた乞食の為に警察が6車線の道を半分に規制して大渋滞しても道路上で乞食の治療をしてました。その頃はまだ日本はなかった、手術まででき る救急車があったのでその場で緊急手術すれば助けられるんですね、ドライなようで本当はホットなのがアメリカです。涙でました。 



3週間7万円でホテル、食事、2日に一度ライブの入場料が使えたわけで、あまり感心のなかったジャズもヴィレッジバンガードでミルト・ジャクソンやビル・エバンスも見てます。縁遠い音楽でも生はやっぱりよかった。両方とももう亡くなりました。これも貴重な経験かな。 



映画も好きだったけどビレッジゲイトの近くに毎日違う名画をかけてる映画館があったのはうらやましかった。でもニューヨークは面白すぎて映画を見るなんて時間がもったいなかった。 



そういえばマロの解散コンサートもビレッジゲイトでありました。よくしらなかったけど見ました。



200円台でした。今に換算して考えた事はないけどとにかくかなりな貧乏旅行でしたが面白いばっかりでもっとお金が欲しいなんて1度も思ったことなかったです。 RT @Premsheel 円=360°でドル360円の頃、200円台になったんでしたっけ?! 



そういえばスターウォーズの映画が完成した時でした。映画館のまわりにとぐろを巻いて客が並んでいるけど今の上映が満席になると次の回まで立ったまま待ってるんですね。アメリカ人は女も男も足腰が強いです。日本より1年はやくスターウォーズが見れたわけです。

今ではハーレム125丁目の通りは半分くらいが白人だそうでテレビで見てびっくりしました。 



当時は黒人以外は行ってはいけない街だったけど思い切って行ったら黒人のおばちゃんから「ハーイ、ブラザー」と言われて感動。黒人音楽が好きだと黒人にはわかるようで、みんな温かかった。 



黒人の生活はどうかと言うと、日曜日に正装してタイムズスクエアのマクドナルドで食事するのが最高の贅沢なのだそうです。これは近年の話。 



ブルックリンはレコ屋には面白いけどユダヤ人と黒人が住んでて、仲が悪い。 



ウォーホルはセントラルパーク沿いのビルを持ってて、そのビルにお母さんと住んでいたらしい。昼にソニーのカセットに録音した音を聴きながら夜中にずっと仕事をしていたそうです。ビルを丸ごと持ってて住むなんてかっこいいなあ。 



ウォホールは車を持ってない。いつもタクシー。都会生活者は日本でもそれがかっこいいんじゃない?なんでみんな車を欲しがるの?車一台買うお金でかなりいろんな物を買ったり遊んだりできるのに。 



77年当時のニューヨーク話はここまで。何か思い出したらまた書きます。 次はキングコングの歴史でも書こうかな、いややめようかな。ではまた。



只今夜の12時20分。今日も只今からお犬様のお散歩。いつかは通報される覚悟です。すいません今日はお話はお休み。散歩から帰ったら寝ます。 



こんな話、興味あるかなぁ。キングコングがおそらく世界で最初にワールドミュージックを開拓したっていう話。 



83年頃、ニューウエイブがやや下火になってきて新譜の数も減り、新しい音に飢えたニューウエイブファンがクラシックや民族音楽を聴き始めました。


その頃キングコングのあったビルの5階に小さな倉庫がありました。入荷が多かったので店頭にも出ずに倉庫へ直行した商品でいっぱい。商品が増えることはあっても減る事のない倉庫で、家賃がどうにももったいなかった。


ここをなんとかしようよと言う事でスタッフ達といろいろ考えたけどいい考えがまったく出ない。 


ねえ、インドと言えばシタール、インドネシアと言えばガムランだけどこんな時代に現地には若い子のロックバンドとかアイドル歌手とかいるんじゃないかなあってひらめいたのは僕。 


当時、まだそんな国の若い子の動きなんて全くニュースもなかったからスタッフ一同「う〜ん」とうなるばかり。でも何か生まれそうな案だった。 


よし、思うより実行!と言うことで現地へ行ってみようと言う事になったけど、この時キングコングの通帳には50万円だけ。飛行機代だけでも高いのに。


で、スタッフ約1名が通帳の全額50万円を持ってインドネシアへ。インドネシアを選んだのには全く理由はない。スネークマンショーのレコードに1曲インドネシアの歌が入っていたけど、実はその時そんな事を参考にはあまりしていなかった。 


まだアメリカ買付にも行った事がなかったのにキングコングの最初の買付はインドネシア。レコード屋が自ら新しい音楽を探しに調査・買付に行ったわけ。無謀。成果がなかったらキングコングの貯金はゼロ。


わずか5坪ほどの倉庫だったけど満載だった在庫をどうしたのかまったく覚えてない。捨てる事だけは絶対しない。キングコングは今までレコードがどんなに余っても捨てたことはない。 


1週間ほどで一人で調査に行ったスタッフが帰国。いっぱいのカセットを持ち帰ってきた。インドネシアは音楽の宝庫で12種類のまったく音の内容の違うジャンルがある音楽の金鉱のような国だった。


5 坪の部屋にみんなでペンキを塗って、カウンターを作りブロックを並べたり、1つ数千円のスピーカーを3台配置して完成。スピーカーはブライアン・イーノが 考えた3台のスピーカーを不思議に配線する環境音楽用の音作り。インドネシア音楽とは関係ないけど、ささやかなつっぱり。 


フォー クウエイズレーベルの純粋民族音楽や実験音楽のレコードも数十枚仕入れて、壁にはインドネシアの12種のカセットを並べてちょっとカッコつけた店の出来上 がり。でもアメリカ村といえどもビルの5階の5坪の店。2階にキングコングがあって3階と4階はいろんな事務所。爆音は出せない。 


インドネシアの音楽はロック編成の歌謡曲やハワイアンと間違えそうなうっとりした音楽、演歌調もあり実にいい感じの笛の音楽からガムランまで12種類。まるで音楽のエルドラド。 


店は大当たり。時代は新しい音に飢えていた。ミュージックマガジンに何本かカセットを送ったら中村とうようさんがハマってしまった。もちろん中村とうようさんがインドネシアの音楽を知らないはずがない。でもここまで深く広がっているとはしらなかったらしい。

店名は「ラングーン」。別に深い理由はない。なんとなく響きがよかったから。 


中村とうようさんがハマりすぎて、ついに自分のレーベルを作ってしまった。インドネシアまで行って音源を探し、契約もちゃんとして正規の発売。1枚目のテスト盤の解説にはラングーンの名前も入れて下さった。 


その頃、東京の六本木にかっこいいビルのWAVEができて同じような民族音楽のコーナーもあったけど全くダメ。ただの民族音楽。 


「ラングーン」の影響ではないけど、アジアンポップスの流行が遅れてやってきた。一躍時代の寵児になったラングーンには毎日、雑誌やマスコミの取材が殺到。記事のファイリングは途中でやめた。あまりにも掲載記事が多くて。 


さらに流行りが加速して5坪の店はいつもお客さんで満員。アメリカ村といえども5階で成功した店は他にないらしい。土曜、日曜日にはお客さんが入りきれなくて順番待ち。 


たかが5坪のワールドミュージック屋なのに1ヶ月400万円の売上が1年間続いた。資本金50万円で年商5000万円・・・税務署さん時効です。 


スタッフは韓国・タイ・マレーシア・香港・シンガポールに始まりパキスタンからイスタンブール、さらにパリからロンドン、ぐるっと離れてブラジルまで。発見した未知の音楽相当数。今では知られた音楽もかなりのものがラングーンが発見したもの。


万国博覧会「花と緑の博覧会」の国際陳列館の音楽プロデュースにも資料提供など。スタッフが博覧会からの要請でイギリスまで視察に。いくつかのアーティストの招聘とライブ開催の協力。資料にはちゃんとラングーンの名前が入ってます。 


世界の未知のポプスを発掘してきたラングーンもこの頃を頂点にして解体。香港ポップスも韓国ポップスも誰でも知っている音楽となりました。すでにラングーンも責任を終え、時代は新しくなりキングコングの大型化と多店舗化が忙しくなってラングーンは消滅。 


ラングーンの商品仕入のためにスタッフが世界中を駆け巡っていた頃に平行してアメリカ・イギリスへの廃盤買付がはじまり、時代もレコードからCDに。アメリカ中のレコ屋がだんだんとCD化していくのを見ていた。


そんな時、アメリカ村の三角公園でたった一人でランページを持ち込んでスケートボードの練習をしていた若者がいた。彼をスカウトしてキングコングの4階にスケートボード店を作った。その彼こそ、その後のS.O.Bのナオト。この話はまたこの次の機会にね。 


今日スタッフがツイッターにUPしたエゲつなく高い値段を見て、もしこれが明日一気に全部売れてしまったらと、つい電卓をたたいてしまいました。みなさんキ ングコングは高額廃盤屋じゃないですよ!安い安い良心価格がモットーの中古屋なのですが、もし明日本当に何枚か売れたら気がゆらぐかも。 


い ろんな人が僕のツイートを読んでくれてるようで、どうもありがとう。書いているとどんどんと新しいフォロワー数が増えていくのが面白いけど、未フォロワー の方がどうして僕のツイートを見つけてくれるのかがいまだに不思議。それに僕のはツイートと言うよりほとんどブログですよね。反則ワザです。 


ア ンディ・ウォーホルに会った事のある人リツイート下さいって書いたのに約1週間、今だにツイート入りません。ステージに出る人でもないし、ほとんどタク シーで移動してるし、会う事ってないんですね。当時の「スタジオ54」なんて入れてもらえなかったし。僕は本当にラッキーだったのだと思います。 


RT @bobkut 何故店舗は札幌と新潟なのですか? @kingkong_music 実際CDやレコードって売れなくなったので閉められる店から閉めていった結果なのです。大阪の梅田やパルコも閉めたので今のアメリカ村の本店に集合したスタッフが最高に良くって店も面白くなったのです。 


アンディー・ウォーホルの話だけに深入りするのはいやなのですが、82年頃に「アンディー・ウォーホルの夜」というパーティーをやりました。今はもうないパームスの地下クラブでです。


最初キングコングのスタッフと相談してた頃はアンディ・ウォーホルはそれほど人気者でもなくて、ただ僕がやりたかっただけでした。 


ウォーホルの「悪魔のはらわた」の上映がメインでスクリーンの左右にはウォーホルの作品のスライドを写して、それだけでは面白くないので、ナム・ジュン・パイクのビデオも会場に5つほどあったモニターに写しました。パイクの紹介は大阪では最初だと思います。 


パーティーの企画をしてから数ヶ月、どういう事か急にウォーホルの人気が高まってきて、開催の頃は人気のピーク。会場は満員で、京都や神戸からもいっぱいの人が来てくれたのに入れなくてブーイングの嵐。 


怪奇映画のフィルムコレクターでも有名な芦屋小雁さんに当時いろいろとお世話になっていて、パーティ会場で使う映写機のレンズをわざわざ持って来てくださったのに入っていただく事も出来ず申し訳なかったです。 


結果ウォホールの「悪魔のはらわた」よりパイクのビデオアートの方が面白くてそれからパイクへどんどんとハマり込んでいったのです。 


僕 が初めてパイクの作品を見たのはニューヨークの近代美術館で入ったすぐのところにあった作品。高さ30cmほどの座禅を組んだような仏像の前にテレビモニ ターがあって、その上に小さなテレビカメラがあって仏像を写している。仏像がその自分が映った画面を見ている。説明のつかない感動でした。 


パーティ用に東京の画廊から借りたパイクのビデオアートが3種位あってパーティのあとで何度も見ました。 


パイクはジョン・ケージとも親交があって、そのケージの音楽に会わせて踊るマース・カニンガム(先日亡くなりました)と組んだビデオやチェロリストのシャーロット・モアマンとのビデオが死ぬ程おもしろかった。 


東京都美術館であったパイクの個展へいったら、なんと本人が奥様の久保田成子さんと一緒に会場を回っていてびっくり。流暢な日本語で話すパイクは韓国人ですが英語もフランス語もドイツ語も話します。確か東大の美術科卒で展示してあった卒論は見事な日本語の文字でした。 


当 時話題だった東京のクラブ「ピテカントロプス(通称ピテカン)」でパフォーマンスがあって、一緒に坂本龍一・細野晴臣・高橋鮎夫が参加して客席にはクセナ キスがいて写真撮影は篠山紀信で、あの狭いピテカンにこの濃度。その日はローリー・アンダーソンの公演があった日でもう嘘のような1日でした。 


パイクがビデオアートの頂点を極めたあとはビデオアートは特に進歩がなく、画面の中の作品というよりモニターを使ったインスタレーションへと変わっていきます。


このツイートを書いていたら、今僕のツイートを韓国語に翻訳したようなツイートをいただきました。ネットは世界中を回っているからいいかげんな事は書けないなあ。特に韓国はネットが世界一クラスに浸透してるし、このツイートを下さった方、何か間違っていたら教えて下さい。 


パ イクはテレビの衛星中継で世界数カ国同時にアーチスト達が演技やパフォーマンスを行う複雑な生番組を作ったあと引退しました。このテレビ番組はケーブルテ レビでしか見れなかったのが残念です。アート界のスーパースターとしてのパイクの最後の仕事への協力ということで、そうそうたる顔ぶれでした。 


糖尿病を患っていたとは聞いてましたが、数年前に亡くなったことはつい最近知りました。2006年に73才で亡くなったようです。


今日のツイートはアート関係に興味のない人にはちっとも面白くないですよねえ。またまた僕の見た事自慢でした。おやすみなさい。 


この前はナム・ジュン・パイクの話を書いて、少しアートへ傾いたのでついでにキングコングが店の下の1階を借りて入り口を全面オープンにしたアートスペース 「FAY RAY」(フェイレイと読みます)をやってた話はまたこの次。スクリーミング・マッド・ジョージもイベントやったんですよ。 


と言う事で今日はおやすみなさい。おっと!フォーエバーレコード @forever_recordsのフォロワー数が500の大台に乗ってしまった。ゲゲ.. フォーエバーのツイッター面白いからなあぁ。 


僕は昔5年間ほどラジオ局で働いていたが、毎回マイクテストをするたびに思ってた。「本日は晴天なり」って誰が最初に言ったのだろう。大阪の空なんかいつも煙っていて晴天なんて年に3日あればいいほうだ。 


@forever_records 川柳はもともと五七五七七から七七を省略したものなのだそうなので、七七を戻した特例枠でお願いします。では一句「死ぬまでは あけずと決めた シールドを 開けてみれば 中身違いじゃ!!」お粗末です。 
 

もう皆さんご存知と思いますがフォーエバーレコード @forever_recordsで続いているレコード川柳がメチャ面白いです。下のツイートは僕が投稿しました。ちょっと違反ですが。

RT @forever_recordsここに答えが http://bit.ly/bt9HQW   へ〜そんな話がちゃんとあったんですね。ラジオ局のマイクテストでかっこつけて「TEST! ONE、TWO!」なんてやるとすごく嫌われます。 


僕の学生時代にはレコードコンサートがあって評論家とかがレコードをかけながら解説してお客様はみんなコンサートのように楽しむスタイルのイベントでした。フェスティバルホールとかの大きな会場で行われることもありました。 


ブルース初心者だった僕はブルースのレコードコンサートをやろうと思って、後にブルース専門誌「ザ・ブルース」を作られた日暮泰文さんがまだ会社勤めをされていた頃にレコード選びから解説までを全部お願いして京都で開催しました。


当時、東京では日暮さんが定期的にブルースレコードコンサートをやっておられて毎回20〜30人のお客様が来られていたそうです。ところが僕が京都で準備したコンサートで売れた前売り券が何と130枚!どうしようかと思った。


当日に来られた日暮さんもびっくりされて、会場はライブコンサート以上に大盛り上がり!会場が京都というのが正解でした。当時、特にロックの動きは東京よりむしろ京都で、全国の中心は京都でした。70年頃の話です。 


当時のロックはブルースが下地だから黒人ブルースは大人気。でも当時はまだ欲しいレコードがうまく手に入らなかったのでこういったレコードコンサートが人気 あったわけです。当然、日暮さんはアメリカから直接取り寄せて聴いておられたので持ってるレコード自体がファンにはたまらないお宝です。 


その日は3部構成。1部、ブルースの歴史。2部、関西では人気のエルモア・ジェームス特集。3部は最近のシカゴブルース。当然3部での聴いた事のない最近のレコードに人気集中!特にカルビン・リーヴィーが大受けでアンコールの拍手が泊まらない・・・レコードですよ。 


日 暮さんとはこの日以来お会いしていないけど多分この日の事は今でも覚えていらっしゃると思います。その後はPヴァイン・レコードを作られてブルースでは日 本の代表的な存在となられました。僕はと言えば、この日にイベントの面白さが身にしみてしまって、しっかり人生の道が外れてしまった。


ラ イブコンサートをやりたい!この頃ハマっていた「はっぴいえんど」系のコンサートを大阪でやりたかった。年末に1500名の会場を予約してはっぴいえん ど、小坂忠とフォージョーハーフ、五輪真弓、友部正人、とりはその頃最高の人気だったあがた森魚とはちみつぱい。これがとんでもない事になった。 


開催直前になってはっぴいえんどが解散。コンサート当日に小坂忠に子供が生まれて嬉しいので来ないって・・。それぞれの所属事務所が手回しして代打のバンドを至急に東京から呼んだ。で、代わりに入ったのが乱魔堂とごまのはえ。ごまのはえって大阪じゃぁ・・・?

緊 急決定のバンドの出順が難しい。あがた森魚は紅白歌手(本当)だったからトリ。人気順で行くと乱魔堂より「少女」のヒットを出していた五輪真弓が後にな る。五輪真弓のマネージャーが焦った。大音響の乱魔堂のあとにアコースティックの五輪では音量で負ける。それに五輪真弓はこの日が大阪初ステージ 


フォー ジョーハーフって知ってますか。メンバーは松任谷正隆、林立夫、後藤次利とあと一人(忘れました)このバンドを至急に五輪真弓のバックにつけようとなった けどリハなんて時間はない。楽屋で譜面見てそのままステージへ。ぶっつけ本番で完璧な演奏!さすがです。主催者は感動!(僕です) 


出 演者大幅入れ替わりを事務所側がステージでおわびして、意外に大きな苦情もなく終了。出演者は変わったけどステージは最高によかった。特に友部正人がこの 日、楽屋入りした時から異常なノリ。その日の演奏は鳥肌が立つほどのものだったらしい。僕は走り回ってて見れなかった。


このままイベンターの道を行くかと思いきや、そうでもなかった。準備にかかる時間を考えるととても生活ができない。また元に戻ってどうやって音楽の仕事をやっていけるか考える。考えるプータロー。 


ま た、街をぶらぶらしながら考える。家を出て梅田をぶらぶらして、梅新の古本屋に寄ったり堂島のレコード屋に寄ってる時にハッと思いついたのが今の仕事。中 古レコード。でも店をやる気はなかった。とりあえず食い継ぎのつもりだった。で、始めた事が・・・この次にします。眠いので。おやすみなさい。 


少し話しが戻りますがイベンターになりたかった頃、やっぱり村八分はやりたかった。以前のツイートに書いたとおり簡単に断られてしまったのですが、若かった僕は、例えば能舞台なんかでできたらよく似合ってかっこいいいだろうなって考えていました。 


も 一つ、以前書いたツイートで村八分ですらストーンズのコピーだ、みたいな事を書きましたが、それはバンドの編成や衣装や化粧の事であって、チャー坊の歌 手・ダンサーとしてのスタイルは未だに他に類を見ないし山口富士夫さんのギターはキースとは全く違うスタイルで今思い出してもゾクゾクします。 


今 でもそうなのですが、コンサートなどのイベントは絶対に記録をとっておくべきです。村八分の写真もほとんどないし、映像は乱れたものばかりだし、音もろく に残っていません。デジタル化された今は音もマイクごとに別々に残しておけば何十年あとでもミックスできるのですから。 


以 前、キングコングの主催でアントサリーのボーカルのPhew(長い間どこへ消えたのかと幻の存在でした)の復活コンサートをやった時、友人のカメラマンに 記録を撮ってもらいビデオも撮っていました。15年位後になってその写真は再発CDのブックレット全ページに使われ、ビデオも発売されました。 


僕も驚いたのですがPhewですら他に記録物がなかった事です。今、僕も準備スタッフに入れてもらってる4月17日と18日のアメリカ村サンホールで開催する大阪ロックデイ @osakarockdayではすべての記録を残したいと思っています。面白いイベントになりそうですのでぜひ来て下さい。 


Phewを知らない若い人のために少し。Phewは以前ソロ活動をしている時、坂本龍一にかなり深く認められてシングルレコードを出しました。Phewのライブの時もバックの覆面をしたミュージシャンは実は坂本龍一だったそうです。 


こんな風に新しい話題が出ると話がどんどんそっちへ曲がっていくのが「片付けられない症候群」の典型的な症状だそうです。今日は頭が痛くて、これで終わります。おやすみなさい。 


しばらくツイート休んでました。只今札幌にいます。雪景色がメチャきれいです。僕のツイートと言うよりブログみたいなのが「長すぎる」と言われる事がありますが我が道を行ってます。僕のはツイートじゃないなとは自覚してます。 


僕のツイートが面白いから本にしたらと言ってくれた人がいますが、本にしてもしも芥川賞でもとってしまったら、僕は小説は書けないのでお断りします。いろんな事を書いていますが、村八分の影響か昔の日本のロックシーンを喜んでくれる人が多いので、今日は思い出すままに書き上げてみます。 


案 外知られていないので驚くのですが、京都では大きなイベントは八坂神社近くの円山(まるやま)野外音楽堂でやっていました。その頃に京大の学生運動で学生 側が自治権をとったのが有名な京大西部講堂で百万遍という所にありました。そこで毎月「MOJO WEST」と言うコンサートがありました。 


京 都の美大の木村ヒデキ(漢字を忘れました)さんのゼミで、これからは教室にこもって研究している時代じゃない、外へ出よう。と言うことで西部講堂で毎月 ロックコンサートをやっていて、記憶ではプロデューサーに内田裕也さんも参加していたように思います。この毎月のシリーズの名がモジョウエスト。 


と にかく毎月いろんなバンドが出ていたのですが、僕は行った事がありません。あんなにたくさんのコンサートを見て来た僕がモジョウエストに行かなかった理由 が今でも記憶にありません。このモジョウエストがどうして今の若い人達が知らないのかも理由がわかりません。フランクザッパも出た事があります 


当時は野外や京大西部講堂でロックコンサートがあると、必ず会場関係者や近所の人達がやってきて「うるさい!」と文句を言いに来ました。説明しても当然理解はしてもらえず電源をバチッと切られてしまう事はしょっちゅうです。演奏中に突然に音が消えるのです。

村 八分のライブレコードも京大西部講堂であったのですが、リハーサル中に怒鳴り込んで来たおばさんがいて、たまたま責任者が現場にいなくてステージ上の チャー坊との言い合いになりましたが「なんでそんな大きな音だすの!」と怒るおばさんにチャー坊は「音が大きい方が気持ちがええから・・」とか。 


で、 責任者が帰ってきたらチャー坊は「なんか、おばさんが文句言いにきはったで」と言ってたのですが「なんかオバハンが文句言いに来よったで」なんていう汚い ことばではなかったのがすごくいい印象でした。このあたり今の若い人達にもロックという音楽を勘違いしないようにしてほしいものです。 


もちろんロックは対抗文化の音楽なのでそういう大人とは敵対関係にあるわけですが、だからといって大人に対して汚いことばで接する必要はないのです。時代を変える責任はあってもそれがきれいな言葉で進められる人の方が頭も良くってかっこいいと僕は当時から思ってました。 


そ の頃、普通の大人の男の髪型の後ろは刈り上げです。当時髪の毛を延ばすということは今のようなファッションではなく古い時代への決別を意味しました。わか りやすく言えば髪が長いとアルバイトも出来ません。道を歩けば罵声を浴びせられ右翼系に陰に連れ込まれて髪を切られる事もあったようです。 


自分達の新しい時代を作るという意識が強く、当時若い人が喫茶店を始める事が多かったのは新しい時代を作る上での収入を自分達で作って行くという事です。だからロックバンドの人達はそういう喫茶店で働いていて、そこがバンドの拠点になったりしたのです。 


京都のワタナベ楽器のオーナー(火事で亡くなりました)もそういった意識で特にコンサート機材をそろえる仕事は自分がやる!と言う意識のあった方で村八分が 円山野外音楽堂で本格的なワンマンのコンサートをやった時にはバックに全面にフェンダーの一番大きいアンプを8台ほど買いそろえたようです。 


新 しい時代を自分達でつくろうと照明屋さんや音響屋さんなど必要な仕事を自分達で始めました。当時はまだPAがなかったので村八分のコンサートでも大きな音 でやろうとするとギターアンプを沢山置くしかなかったのです。その時もステージの後ろ全面に新品のフェンダーアンプが並んだ光景は凄かったです 


日 本では加藤和彦が最初に日本にPAシステムを導入したそうですが、関西にいた僕たちがPAシステムに最初に驚いたのは円山音楽堂でのフラワー・トラベリ ン・バンドのカナダからの帰国一番のコンサートでした。客席中央にミキサーがある光景はその時が始めてで音の素晴しさには腰が抜けそうでした。


はっ ぴいえんどのライブは少しダルくて眠かったり、まだ2人組だった吉田美奈子のバンドのパフやテレビデビューする前のCSNYコピーのガロ、東京っぽくかっ こ良かった乱魔堂や、まだまだ無名っぽいバンドではジプシーブラッドや僕は好きだったサンタな風のブードゥーチャイル、もうきりがないです。 


ヒー リングミュージックで知られている宮下富実夫さんは当時は「FAR OUT」というかっこいいハードロックバンドのボーカルでした。当時、喜多嶋修(喜多嶋舞のお父さん)と2人で作った「新中国」というレコードがあって僕 も今でも持ってますがとっても素晴しくて今はすごく高価だそうです。 


な んか今日は札幌に来ているせいか、いつもより話のノリがないですねえ。すみません。今日は僕の頭の中にバラバラに残っている記憶をバラバラのまま書いてみ ようと昼から思ってましたが、書いていてもバラバラな気分で話が全然まとまらないことに戸惑っています。今日は不評でもこのまま突き進みます。


この頃大阪では「春一番」という大きなコンサートがあって、当然僕も見ていましたが、京都の動きとは少し違った印象に残っていて、こちらの方はまた別の日に書いたほうがいいかな。両方を書くと頭がごちゃごちゃになります。僕は当時は京都の方に大きく影響されていました。 


当 時、今のライブハウスのようなお店が幾つかあって拾得(じゅっとく)とか磔磔(たくたく)が有名でしたが僕は何故か磔磔には行った事がないのです。拾得を 共同経営されていたのは僕の大学の英語の先生でした。ずっと前のツイートに書いた外道のライブレコーディングを見たのもこの拾得でした。 


拾得のような店は食事もできて入りやすかったのですが、ロック喫茶となると若かった僕には入るのが怖くて、これはみんながそうだったみたいで、とにかく入るとみんなからじろっと見られて怖いったらない。入った事だけで自慢出来る時代でした。 


京 都は多分日本で一番カフェ文化があるところで日本のフォークシンガーの歌にはよく京都のカフェが出て来ますよね。そういう底辺があってロック喫茶が多かっ たのでしょうか。ロック喫茶は何かのバンドの拠点でもあったのでコンサートの企画や主催もロック喫茶の環境の中であったのです。だから怖い。 


今日は何となくずるずると書いているだけな気分なのでこの辺で終わります。やっぱり大阪人、話にオチがないのは全然面白くないな。というところでおやすみなさい。 


村八分は西部講堂のライブだけしか出ていないはずです。数年前セット物でDVD付きの何枚組かの物が出ましたがおそらく海賊盤的な音の物だと思います。RT @uchunohitsuji 村八分をあらためてちゃんと聴きたいと思ってます。どの作品から入ればいいでしょうか。 


スタジオ盤は聞いた事がないです。僕としましてはライブレコードはあまり村八分の本当の姿が出ていないと思います。RT @uchunohitsujiやっぱり「ライブ」ですか。復刻スタジオ盤「くたびれて」はどうですか。 


さて僕の時間です。このキングコングのツイッターは昼間は店のアピール、夜間は僕が独占しています。僕はキングコングの馬鹿オーナーです。2部構成になってます。只今札幌へ遠征中で今夜は夜更かしできないので短めにまとめてみます。 


こ の前のツイートで予告だけに終わったキングコングのスケートボード店の話なのですが、そもそもロックもヒップホップも基本的にアウトローな立場です。アウトローと悪い人とは別物です。キングコングのスケボー店はそもそも僕が始めたのではなくて、今はなき東京のUKエジソンの社長からの誘いでした 


スケートボードは当然スポーツなのですが発祥のアメリカではヤバい系の若者のスポーツでありながら相当に訓練のいるスポーツです。スケボーの板は大手スポー ツ用品店でも作っていますが、面白いのはインディーズ物があってアメリカでそういう板を作ってるのは普通じゃ入れない怖い(ヤバい)地域でした 


当時スケボーと連動しては流行ってた音楽はスラッシュメタル。カメラを向けると中指を立ててファック・ユーなイカツイ表情ばかりポーズするような連中ばかりで、これはスケボー少年も全く同じ。 


で、音楽を扱っていて、特にアメリカ村のようなアウトローな地域で営業しているキングコングとしては、スラッシュメタルとスケボーは同じ世界の商品だったのです。 


そこでUKエジソンがインディーズ系のスケボーの板を集めてスケボー専門店を始めたのでキングコングも一緒にやらないかと誘われて東京へ行ってみて見ると、ヤバい!これは面白いと二つ返事でOK。店名は「ヴァイオレント・グラインド」、かっこいい! 


当 時の4階の部屋がまたまた在庫の山で全く手をつけず毎日の過剰商品を突っ込んでいる倉庫。またまたその商品の山をフォーエバーに二束三文で売って部屋を空にしました。その時処分した商品群は廃盤の山でフォーエバーさんは相当に得をしたんじゃないかと、これは今でも夢に出て来てうなされています。 


その頃、三角公園でたった一人で毎日スケボーの練習をしていたのが後にS.O.Bで活躍したナオト。そのナオトに「毎日遊んでるだけでいい仕事があるからやってみない?」とだましてスカウト。即日、店長に昇格、過酷な仕事を押し付ける、いつものキングコングの人事方法。 


UKエジソンと組んだのは、アメリカでも手に入りにくいインディーズの板が手に入るからで、実際アメリカでその商品をエジソンに送っていた輸出業者は板を集荷に行く地域が怖い地域なので、毎回命からがら行っていたそうです。 キングコングはと言うとレコードの販売以外は何も知らないのでウロウロ。


気が付けばスケボーチームが出来ていて、これがまた日本有数のメンバーの集まりで、日本で1、2の腕を持つ有名選手の集団。なんでも今でもスケートボードをやってる連中の中では伝説的なチームらしい。 



「社 長、今度東京で大会があるので経費下さい!」なんて考えてもいなかった費用を突きつけられて、チームと言えばキングコングがスポンサードをしないといけな いなんて知らなかったので動転。でも「社長!」なんて言われたのは初めてだったので苦しい財布から泣く泣く支払い。これが何度か続いた。 


板もろくに売れないのにあちこちで大会があって、出金オーバーな毎日。そのうちなんやらチームの子たちがごそごそと板を運んできて店の中にランページ(スケボーの試合などで見るUの字型をした滑り設備)を作り始めた。その時止めておけばよかったものの黙って見ていたのがいけなかった。 


ラ ンページは約3ケ月で完成。喜び勇んで早速試し滑り。で、5分ほどしたら「コラ〜っ!」。現れたのはビルの社長さん。確かにひと滑りしただけでもビル全体 が揺れた。さらにまずいのは隣りの部屋がビルの社長室で、めったにいない社長がその時に限って部屋にいた。3ケ月で作ったのが5分でアウト。


み んなに納得してもらって解体。こんな事もあるわなとなだめつつ、こんな店いちまで続くんやろと思いはじめた。チームのメンバーが近所でケンカして血だらけ で帰って来たこともあった。スケートボードも部品も売れない。なんていう店が続くはずもない。なんと言ってもこんな怖い店に客が来るはずもない 


店 はだんだんとレコード店化。もともとスケボーと音楽は同次元。イギリスの買付盤を置いた。スケボーの世界チャンピオンなんかもよく遊びに来ていたので、そ んな人達がレコードをまとめ買いしてくれた。アメリカ買付盤はイギリスのDJが買い、イギリス物はアメリカ人が買うという現象が続いた。 


そ んな日が続きながらスケボー店にレコードを増やしつつ自然消滅。胸が痛かった。チームの子たちにも何もしてやれなかった。後日数年ぶりに偶然パーティーで出会った時、初めてみんなにあやまった。みんなは「そんな事ないですよ。あの頃は本当にありがとうございました」と言ってくれて一人隠れて涙。 



そ の店はGigaと命名し音楽のインディーズ専門店にして、ナオトもS.O.Bで活躍してたので店は安定。ビル・ラズウェルとジョン・ゾーンが店に来た時ビ ル・ラズウェルはラングーンでアジアンポップスのカセットを買い、ジョン・ゾーンはナオトにサインをねだってた。息子さんがファンだとか。 


Giga は大阪のインディーズ店としては上位の店となり、新譜の注文も一種だけでも500枚ほどオーダーするようなお化け店となっていったがインディーズブームが 急に去ってしまい一種類で数百枚ものオーダーをしていた為いきなり過剰発注をかぶって最後には1000万円の支払いが滞ってしまった。 


さてさて、キングコングとしては死活問題の局面。こんな話にはもう触れたくないけど・・・またいつか。おやすみなさい。 


い つも店の営業が終わって夜中になると勝手な事ばかり書いていますが、結構たくさんの方々が読んで下さっている事がわかってだんだんと文章に緊張が入ってき ます。ほんとに勝手なことばかりで実は僕は昔を振り返ることが大嫌いなのですが書いてみると思いのほか反応があるので続けてみようと思います。 


僕にとって70年代にニューヨークで少し滞在した事が今でも自分の基本になってます。近代美術館とかも有名だから入っただけだったのにものすごいショックでその後の80年代の日本のアートシーンへも積極的に参加していくことになります。 


近代美術館は観光地のようになってますが、ここへ入った入口でのナム・ジュン・パイクの作品「TVブッダ」との遭遇のショックは以前にも書きましたが頭がグ ラッと来て以後観念的な美術にどっぷり。この小さな作品を見て少し進んだ次の部屋の前に壁があって壁を超えるとそこにあったのが「ゲルニカ」!


横8mはあろうかというピカソの作品。こんなのに予告もなく突然出会ったときのガ〜〜ンというショックは未だに消えません。呆然と立ちすくんだのか、ヘナヘナと座り込んだのかは覚えてないけど、こんなもの平気で突然見せるもんじゃないですよMOMAさん。 


もう近代美術館での記憶はこの2つだけ。あとはいろんなもの見たのだろうけど忘れました。当時ゲルニカはこの美術館が預かってたそうで、今はスペインの美術館にあるそうです。こんな電撃ショックが当時のニューヨークでは1日30回くらい。 


アー トが音楽と同じように楽しくなってきたのはこの頃からだった気がする。後に知り合ったマッド・ジョージも憧れの師はダリ。今思えばアンディ・ウォーホルに してもその作品よりは彼が居たという社会現象が面白かったと思う。だからかっこいいなんていう言い方をしてしまう。ロックスターと同じ。


僕の勝手な解釈だけどヨゼフ・ボイスがやった社会彫刻なんていうのはボイスよりウォーホルの方がはるかにやってしまったんじゃないかなあ。ベルベット・アン ダーグラウンドの存在感やポップアートの観念や、毎晩ディスコで遊び回るという生活とか訳のわからない映画作って話題作ったり。 


あの、今日はアートの話に深く入るつもりはなくて僕は美術系の深い知識なんてまったくないです。読んでもらえばわかる通り単に時代にミーハーなんです。そう、時代!にね、ここが大事。  

さっき書いたヨゼフ・ボイスはその後84年に来日した時の騒ぎはほとんどロック・スターの来日でしたよ。今では忘れられている感じだけどかっこよすぎるんですよ。確かに80年代初期はアートがかっこよかった。 


ニューヨークでもキース・へリングに代表されるようなグラフィック(落書き)アートがはやったり、そんな流れからバスキュアの人気が出たり、大体バスキュアなんて映画になって、その映画もロックファン向けだったですよね。ウォーホルもどちらかと言えばロックスター。 


特にアメリカでのアートや音楽の発展の仕方ってミーハーぽくっていいですよね、わかりやすい! 


で、 その底ではメアリー・ブーンなんていう女性画商が暗躍していて、しっかりとお金儲けになるように仕組んでいく。ただの落書きっぽい若手画家の絵を数千万円 で売ったりする仕組みを作ってしまう。いい事か悪い事かわかりにくいけど、ここが日本では力薄く感じてしまいます。あくまで僕の思いですが。 


で、 そのころの日本ではと言うと、そんなアートブームに便乗して街作りとかの計画で大きな壁なんかに絵を書いたらいいな、まではいいんだけど、ペンキとかをス ポンサーに用意させて若い画家にタダで絵を書かせる。書かせてもらって嬉しいだろうという考え。若い画家はこれで食っていきたいと必死なのに 


ほんとに日本は文化が貧弱だと思う。ここで拍手した人もいるかと思うけど、こんな一面があったのも事実。つまりアーチストが何かをする時は誰かが援助してくれるのが当然だから金出せよ、という若いアーチストも多かった。どちら側も文化が貧弱なのかな。メセナは難しい。 


さっき書いたメアリー・ブーンという当時まだ若かった女性画商の師匠のような人がレオ・キャステリといって、なんとまあこの人はアンディ・ウォーホルを扱った画商。よくできてるわ、ホンマ。アメリカは。 


今日書いてる事はニューヨークでの昔話しでもあるけど、その頃の日本ではキングコングがアメリカ村にあったこともあって、いろんな街の街作りにかり出されて実際に体験した日本での事。さっきのおっさんらの考えも、若きアーチストの考えも貧弱。これはいつか叫びたかった。 


さ て、そんな事を経てある時ある会議に呼ばれた。大阪ガスの北支社が扇町にあって、これを閉鎖するから跡地でなにかできないかなという相談。大阪で文化に関 わるいろんな人達10人位が集まっていろんな意見を出し合った。で、なんと僕がその企画を進める5人の企画委員の1人に選ばれてしまった。 


演 劇・物販・アート・音楽・映画などいろんな文化活動をしている人達が集まってそのビルをどんな考えでどう改装してどう人を集めるか。梅田地区では一番遠い 位置にあるそのビルをどう作り変えるか。ここには大阪での文化活動での不満が全部吐き出された。企画委員は当時の大阪に不満の固まりだった。 


不 満を全部解決できるようなビルを作るため大阪に足りない構造を5人の企画委員で考えて完成したビルは大変なこととなった。このビルから大阪に小劇場ブーム ができアート・演劇・映画などなどの発信地となり梅田から一番遠いこのビルに若者がぞろぞろと集まった。これが「扇町ミュージアムスクエア」 


今 日もニューヨーク近代美術館に始まって扇町ミュージアムスクエアまで話題がコロコロと変わってしまって僕の「片付けられない症候群」が発病してしまいまし た。扇町ミュージアムスクエアは当初3年で閉鎖の予定が10数年続いてビルの耐久年度ギリギリまで営業した。この話も多分続く。おやすみなさい 


只今、ボブ・ディラン大阪に滞在中!目撃者は至急ツイート下さい。 


只今、ボブ・ディランが大阪に滞在中!とツイートしたら、マジでー、鼻血ビュー、ひゃあ、目撃したい!!、大阪に来てるって。ほんとーか! 、などと瞬時にいきなり多数のツイート頂きました。あの・・・ディランは只今5日間もの大阪公演中で16日まで大阪にいます。誰かチケット1枚譲って下さ い! 


さらに現在大阪滞在中のボブ・ディランを目撃した人、至急連絡を!2度目の捜索ツイートなのですがなぜか未だ発見されず。そんなはずはない!5日間もホテルにこもるような人じゃないと思うけど。古本屋でディラン詩集を買ってたりするらしい。(本人も詩を忘れるらしくて) 


店 の営業時間が終わると僕の自由時間になります。今日は雨でお犬様の散歩もなくゆっくりと思い出し話を書きます。先日ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬君 からメールがあって中川君の事も書いていいとの事でしたのでまたいずれ。彼はメジャーデビューするまではキングコングで働いてくれていました。 


60 年代後期の日本のロックとなると頭脳警察は印象にあります。2度見て、最初は5人組。覚えているのは2度目の2人組の時。舞台に出るとコンガで同じリズム で叩き続けて次第に引き込んで行きます。パンタはもう歌じゃなくてアジる事アジる事。当時の学生運動の背景もあって客席は暴動化。 


ア ジるとは政治的な強い言葉を叫んで扇動する事。コンガの連続的はリズムが呪術的に淡々と続く中、パンタが叫ぶ。丁度ローリングストーンズの「悪魔を哀れむ 歌」と同じ呪術感。観衆は反体制派のロックファンばかり。そんな中で「立て!」「銃をとれ!」なんて叫ぼうものなら客席の暴動化は当たり前。


ス トーンズの「悪魔を哀れむ歌」の時の殺人事件と同じ。もし日本で銃の所持が認められていたらもう何人が死んだ事か。「銃をとれ!」なんて恐い言葉はこんな に扇動化された群衆には危険すぎる。客を暴動寸前まで持って行ったらさっと引いてステージを降りてしまう。欲求不満の群衆。 


これを見たのは確か琵琶湖沿いの広場でのオールナイトのコンサート。主催が京都の放送局だったので女性アナウンサーとかも出てくるんだけどビンや缶を投げつ けられて「帰れ!帰れ!」これが村八分の時に書いた帰れコール。観客は反体制でサラリーマンの局アナは格好の標的だった。かわいそうに。 


こんな危ないコンサートの司会をミッキー・カーチスがやっていて、ミッキー・カーチスはその昔の若手向けのテレビ音楽番組「ザ・ヒットパレード」の司会も やっていたからこんな反体制客も芸能界も両方を扱える希有なロッカー。それは内田裕也も同じで、この2人は両側をつなげる事のできる貴重な人達。 


話はずれるけど日比谷野音での大きなロックコンサート(丁度サン・ハウスの東京初公演の時)スモーキーメディスンや四人囃子、トリはサディスティック・ミ カ・バンドの時なんて内田裕也の1815ロックンロールバンドのサプライズゲストは当時人気絶頂だったジュリー(沢田研二) 


こ んな風に芸能界と反体制派のロックコンサートをつなげられる芸当はこの2人しかいなかったと思う。「僕のマリー」のイントロを陰で歌いながらのジュリーの 登場は客席全員歓声の渦。あえて言えばこの頃はジュリーは芸能界でのトップの人気者。それでも大将の内田裕也には逆らえない。 


それより驚くのは客席の観衆。みんな反体制派じゃなかったの?ま、このへんが当時の反体制派や学生運動の意識の実態かも。やっぱりみんな理屈抜きで楽しいのがいい!って。こんな入場料でジュリーまで見れて最高!!ってね。 


話 戻して、さっきの琵琶湖のコンサートの時に実は村八分も出ていた。でもこんなに存在感のない村八分は初めて見た。放送局主催のコンサートなのでどこか勝手 が違ったのかもね。最高のバンドだと思っていたのにこのショボさは淋しかったなあ。この夜の村八分のステージはほとんど覚えてない。 


そ の日、昼に梅田をうろうろしてたら髪の毛の長い男の人に声をかけられて「すみません、琵琶湖ってどう行けばいいんですか?」琵琶湖への行き方なんて、琵琶湖の大きさを知らないの?どうやら風体から見て今夜のコンサートを見に行く人。でも違った、見るほうじゃなくて出る方。イェ〜イ、ピース! 


名 前は忘れたけど有名なバンドのメンバーだった。ま、当時はそんなもんでした。バンドやってる方も、見てる方も同じ価値観の同じ仲間。たいてい同じ喫茶店に たむろしてて仲間意識がつよかった。それはつまり僕ら側と大人側のどちらの意識を持ってるかと言うこと。大人ってまあ30才以上の人。 


昔 ビートルズも言ってた「30才になった僕らなんて考えられない」、篠山紀信も言ってた「僕は30才になったらカメラマンを辞める!」そんな人達は今はみん な60代。今だに先端を行ってるのはどうして?続く人はいないわけ?若者もしっかりしないとストーンズは70才越えても多分ステージやってるぞ 


さ て琵琶湖での夜明け、いくら若くてもそろそろ疲れてくる頃、そろそろ最後の大御所が出てくる時間。誰がその大御所だったか忘れたけど、たったひとつ「クニ 河内とハプニングスフォー」は忘れられない。このグループは僕は今までこの日しかみた事がない。バンドとは、音楽とはをしっかり教えられた。 


そ れまで一晩中ガンガンな音や、アナウンサーと客とのケンカなんかのつまらない事ばかりあったその一夜の明け頃、ハプニングスフォーは音量を少し下げて楽器 の音量のバランスをしっかり整えてハーモニーの合ったしっかりした「音楽」を見せてくれた。これこそ本物のアジテーションだと思った。 


アジテーションとはさっきの「アジる」のアジと同じ。今の場合、古い大人の世界への反体制としての言葉。バンドでがなりながらアジるのは結構だけど、君らプ ロのバンドでしょ。お金もらってやってるんでしょ。と言いたくなるハプニングスフォーの「音楽」。素晴しすぎて気が落ち込んだ。


僕はいったい何をしてるんだろう。どちらかと言えば騒々しいだけのバンドの方に僕の目指すものがあると思ってた。こんなにちゃんと音楽をやってメンバーの誰 も出しゃばらず音量を整えてこそ音楽。ハプニングスフォーの「音楽」こそが僕の目指す本当の道だと気付いた。この結論は大事。おやすみなさい


ま たまた僕が勝手な事ばかり書く時間になりましたが、前回のジェフ・ベックが来なかったコンサートの真実を暴いてしまった余韻が続き、すこしの間お休みして ました。今日は多分皆さんが一番面白くないキングコングの話。いつかのスケートボード店のあとに作ったインディーズ専門店の話から。 


ス ケートボードの店をやるためにスカウトしたナオトはキングコングに入った頃から自分のバンドS.O.Bの人気が急上昇して大活躍。それより以前にまだスケ ボー店が倉庫だったころからキングコングで働いていたのが当時はニューエスト・モデルで今はソウルフラワーユニオンで活躍している中川敬君。 


そもそもキングコングでインディーズを扱い始めたのはラフィンノーズがキングコングへ自主制作盤、すなわちインディーズを持ち込んで来たのがきっかけ。当時 はバンドが自分でレコード作って自分でレコード屋に納品して売るなんていう事が始まったばかりで僕は横で見ていただけ。あまり感心はなかった。 



ラフィンノーズのポン君(ベース)が納品書を書いているのを見て、ロッカーが事務作業までしっかりとやってる事にちょっと驚いた。もちろん清算して請求書・領収書まできっちりと済ませる。このようなロッカーの姿勢が現れたのがインディーズブームのはじまり。 


ラフィンノーズは急速に人気が高まり、4人のメンバーは皆有名人。キングコングは有名なロッカーがご来店の店となって何とも不思議な感じ。当時、店の中央に はお客様用のテーブルがあったのでラフィンノーズのメンバー達がそのテーブルでミーティングをしていたりしてキングコングは話題の店となった。


ラフィンノーズは当時はインディーズの頂点。だからインディーズのレコードを持ち込むバンドが段々と増えてついには店内にインディーズのコーナーが出来てし まった。さらにそんなアーチストがいっぱい店にやって来るのでキングコングは有名アーティストがいっぱいご来店の店となって非常にありがたい。 


話 は戻るけどロッカーが事務をやると言う事は本当に画期的な事。有名人が来てありがたいと言うより僕は彼らが自分達で上へ登る道を開拓していってる事を本当 に感心して見ていた。長いロックの歴史、つまりエルビス、ビートルズ、そして70年代を通してこのようなバンドの姿勢は革命的と言える。


ラフィンノーズのポン君はキングコングのインディーズ担当の子を飲みに誘ってインディーズの売り方まで指導してくれたらしい。彼らは音楽業界の末端の小売りの方法まで心得ていたわけで、はっきり言ってキングコングはラフィンノーズに育てられたようなものだった。

当 時インディーズを扱っている店はそれほど多くなかったので、例えばラフィンノーズが新作を出したらキングコングの注文枚数は1アイテムだけで300〜 500枚の注文を出していた。この注文枚数は1軒のレコード店としては驚異的な数なのです。もちろん他のバンドへの発注枚数も多かった。 
 

当然、売れるから発注するわけでキングコングはだんだんとインディーズが中心のような店となっていった。この頃にキングコングで働き始めたのがさっき書いた ニューエストモデルの中川君。でも僕は中川君を面接テストした記憶もなく、アメリカ買付から帰ってきたら従業員が一人増えていた。中川君が。 


この謎はいまだに解けない。今度会ったら本人に聞いてみようと思う。いつの間に誰の了解を得てキングコングの従業員になったのか?彼がキングコングに入った 頃からインディーズのコーナーの一番前にはニューエストモデルが整然と並んでいる。これを仕事に熱心な従業員と言っていいのかな? 


店の壁に貼ってるいろんなライブ情報やメンバー募集とかの一番目立つ一等の場所には必ずニューエストモデルのポスターが貼ってあった。店のコピー機のカウンターがある日急に千枚増えた。誰が千枚もコピーしたんや!!あ、中川君です。 


この頃は実費を払ってくれれば個人用のコピーは撮ってもいい事にしていたけど即禁止!中川君の名誉のために、彼はちゃんとコピー代を払ってくれました。千枚 もコピーするのなら印刷の方が安いのに。そう言えば同じ頃、遠くに住む彼女に電話代を30万円も使った奴がいる。これはまだ未清算! 


聞 く所によるとビートルズがアップルを作った時のアップルの事務所もこんな感じだったらしい。誰でも勝手に入ってきてもよかったらしく、勝手に遠距離電話し たりしてビートルズの収入がガタ減りして破産しかけたらしい。でも、皆さんキングコングとビートルズじゃ収入が違うぞ!桁が!! 


ありゃ? 中川君が今これを読んでるらしくて言い訳メールが2本。RTしましょうか。いいんでしょ中川君。 


RT @soulflowerunion wwすいません。コピー機が、山猿にとっては、相当物珍しかったのです。 もう一つRT @soulflowerunion ww○○君と●●君経由で、倉庫に貯まってる中古レコードの整理のバイトやらない?と話が来たのでした。87年初頭。 


あ、 また来た RT 今、ライヴ会場から、酒を一滴も飲んでない可哀想な高木克さんの運転で帰宅。ルイボスティーで癒されながらTLを覗き観ると、80年代後半ニューエストモ デル初期の頃に店員としてお世話になってたレコード屋さん「キングコング」のTweetに華々しく俺登場中w。

え〜今日は二次元中継のツイートです。あとは無視して続けますが、もう一つ以前に中川君から来たメールのコピーで本人から告白してもらいます。「その節はお世話になりました。遅刻ばかりして申し訳ありませんでした。」遅刻常習犯。あの中川敬君がね。 


そ う言えば今日はソウルフラワーは梅田Shangri-Laでのライブでしたね。僕はファンダンゴの少年ナイフ見に行ってました。ドラムのエッちゃんがしば らく抜けるそうなので。最近は日本のバンドが面白くてかなり見てます。あ、「大阪ロックデイ」4月の17日と18日です。またツイートします。 


話の道を戻すのがかなり困難になってきましたが、実は中川君のこんな裏話書いていいのかどうか迷ってました。かなり政治的な事とかにも発言している人なのに心が広いですね。 そういう姿勢いいな。関西っぽい。これからも頑張って下さい。 


ま、こんな調子ですから僕は経営者としては全く失格です。この頃キングコングは2階にあって5階には以前にツイートしたワールドミュージックの「ラングーン」 とアメリカ買付専門店の「キングコングUSA」、で4階が崩壊中のスケートボード専門店「ヴァイオレント・グラインド」 


2階のキングコングじゃインディーズがかなり力入ってきたのでスケートボード店をインディーズ専門店にしようと言う事で改造。ナオトはS.O.Bで売れてた から一応この店担当。もう一人自分でレーベルやってる中林君。こんな店がビルの4階の奥にあって入っていけます?恐いですよね。やっぱり。


でも、当時のインディーズブームはその恐さを乗り越えてでもお客さんは入ってきました。相変わらず新譜の注文は1アイテム500枚。ところがインディーズ人 気が急落。レコードの発注は制作前に数を注文するので、全く売れないのに一種500枚の入荷が続く。で未払金が1千万円かぶってしまった。 


あれ、今日はこの1千万円をどうしたのかの話から始まるはずでしたがやっとここにたどり着いたところで眠くなってきたので、次回またここから話を始めますね。連休だし。....あの、中川君がまだ何かいいたそうなので次にRTしときますね。 


RT @soulflowerunion 今も遅刻常習犯です。一度遅刻で解雇されかけて、そこをなんとか!と回陽さんに懇願した記憶がw。本当お世話になりました!-----クビを言い渡したのは1回じゃないと思うけど!! おやすみなさい。


実 はいままでPhewの事を書かなかったのは今の若い人達は多分Phewのことはあまり知らないだろうと思って触れませんでした。昨日のキングコングのス タッフが書き込んだDommuneでのPhewの出演にスゴい反響があったので、僕の思ってる以上に知られている事に驚いています。 
 

かなり以前ですがアントサリーというグループが人気あって、そのボーカルがPhewでアントサリーの解散後にはPhewは坂本龍一達とソロ活動をやっていてたのですが、しばらくしたらこつ然と姿を消してしまって、どこで何をしているやら謎の時期がありました。 


ソロ活動の時期はドイツのコニー・プランクのスタジオで録音したりでホルガー・シューカイの他いろんなドイツのミュージシャンと交流があったようです。その 頃のレコードは今も伝説的に人気があります。オリジナルはもうほとんど見なくなりました。あってもかなり高価になってます。 


またそのソロのレコードを再発した会社もあるのですがPhewの所在が全くわからないので印税などの支払先に困って「Phewさん連絡下さい」という広告ま で出ました。もちろん本人の承諾も得ず再発するのは業界的には大変な違反行為です。Phewはこの再発などには泥棒として憤慨しています 


その話題のレコードを出してから数年間、誰も連絡がとれず正に謎の存在でした。そしてある時、Phewがまた歌いたがってると言う連絡があり東京と大阪で復 活コンサートを企画しました。実は当時のキングコングの女性店員がPhewのバンドのアントサリーでギターを引いてたビッケの妹でした 


その縁もあって復活ライブの大阪の方をキングコングにまかせて頂きました。まずは会って話をという事になりましたが、キングコングの店でお会いする事にはほんとうにドキドキしました。あの謎のPhewが店にきてくれる事は僕にとっては大変な事でソワソワして待っていました 


みなさんには申し訳ないですが、ビッケの妹であるキングコングの店員からPhewとビッケが2人で歌いながら遊んでいる時のテープとかも聞かせてもらいまし た。ベルベットアンダーグラウンドのサンディ・モーニングとかをビッケのギター1本で歌ってるテープで歌っていて、かなりよかったです。 


凄い事だと思いますがPhewはこの復活ライブを一人で全部作り上げています。完全な自己プロデュースです。近藤達郎さんにプレーヤーを集めてもらい、ポスターとチラシ用の写真も撮影をして当日のミキサーまですべてを自分で作り上げていました。 


リ ハーサルを見ていた印象では音楽作りもPhewが基本案を作り、近藤達郎さんも意見を出しながら作りあげていく感じでした。ドラムやギターの人達もかなり なレベルの方達です。ライブは一応記録のためにビデオをほぼ据え置きのカメラで記録していますが、テスト撮影にはリハ風系も少し残っています。 


当然ですがこのビデオは絶対に販売などはせず、絶対的に僕が保管する約束で10数年のあいだ人に見せることもなく保存していましたが、数年前Phewの映像を制作する事になり、このビデオを使っていただきました。販売されたテープの大半がこの日の映像です。 


ライブ会場は扇町ミュージアムスクエアで2回公演。1回に250人しか入らないので2回にしました。一番大事な広告活動は元ロックマガジン編集の渋谷君。もちろん2回ともチケットは完売なので見たのは全部で500人。 


今日のツイートはかなり堅いですが、何のシャレっ気もない記録ですので興味のある方だけでも読んで下さい。全席完売は当時のPhewとしては当然かと思いますがキングコングとしても赤字をかぶる余裕なんて全くなかった頃ですから僕もかなり神経使いました。 


ライブの話が決まってから数ヶ月の間にPhewとの打ち合わせは何度かありましたが、全体の作りはPhew自身が考えているので僕としてはPhewの考えをまとめるだけ。こんなにレベルの高いアーチストのライブを扱うのは初めてだったので結構気を使いました。 


本番ではPhewは淡々と歌い続けるだけで語りは一言もなし。全力で歌うPhewはステージが終わったあとは空気が抜けた風船のようにしゃがみこんで疲れて いました。疲れというより魂を出し切った抜け殻とでも言えばいいのでしょうか、とにかくステージですべての力を出し切ってしまっていました。 
 

本番が終わった次の日、雑誌の取材があって僕も同席させてもらったのですが、本番までの数ヶ月とは全く違う女性に戻って、とってもきれいで可愛い女性でし た。コンサートを作り上げるまでの気迫と終わったあとの様子が全く違っていて、本番までの気持ちの入れ方が相当なものであった事がわかりました。

今 日は一切の冗談も入れず、堅く話しを進めましたが、Phew復活のイベントと言うものは決して笑いながら語れるようなものではなかったです。音楽作りに真 剣に全力投球して数年ぶりに人前でライブを行うPhewと共に動いたこの数ヶ月は僕の人生にとっても一大イベントでした。おやすみなさい。


久々の登場ですが、こんな時間に誰が見ていてくれるんでしょうね。先日のPhewの話はかなり堅くまじめに書いたのですが、じわじわとフォロワーの方が増え まして驚いています。実は書いた僕もまた聞き始めていましてアントサリーのライブなんて出ていてびっくりしてます。このCDかなり凄いですよ。 


まだアントサリーを聞いた事のない方はやはりスタジオ録音の方を先に聞いて下さい。ドイツでコニープランクやホルガーシューカイと作った「Phew」や2000年を過ぎて出た「ヴュー」もそれぞれが違った凄さがあって驚きます。


今 更ながらキングコングがこのPhewの復活コンサートを主催させてもらった事は本当に嬉しいです。その時のお客様の会話に耳を傾けてると「背筋が凍った わ」とかの言葉も聞こえてまさに僕もそうでした。ビデオは今は手に入るかどうかわかりませんがインタビューがあり、かなり深い話をしています。


さて今日の話ですが、話のネタはいくらでもあるのですが、また古い話に戻ります。今は女性ロッカーのカリスマ的存在だそうですが、カルメン・マキに1日に3 回も出会った話から始めます。ちょうど東京の渋谷に天井桟敷の小屋ができた時の事で「時には母のない子のように」が大ヒットしていた時です。 


東京へ出かけたのは寺山修司さんが天井桟敷の小屋を作ったときのこけら落としの芝居を見るためです。夜の公演までは時間があるので、当時の僕の習慣通り東京へ着くとまず銀座へ行ってました。目的はイエナという洋書屋さんへ行く事です。 


当 時、大阪と東京では天と地の差ほどに文化の深さが違い、まずは物量が違いました。ビートルズの影響でラビ・シャンカールのレコードを探して京都・大阪・神 戸のレコード屋を知ってる限り回りましたがやっと1枚見つけただけ。その頃の東京のレコード屋には、なんとインド音楽のコーナーがありました。 


お金もないのに東京へよく行っていたのは、この違いなのです。銀座のイエナ書店は洋書専門店で植草甚一さんなんかがよく行っていたお店です。その頃、大阪で は洋書店どころか大きな本屋さんでも洋書なんてほとんどなかったです。英語の本なんて読めなかったのですが見るだけでも嬉しかったです。 


銀座には山野楽器もあって見た事もない本物のブルースハープ(ハーモニカ)があって当時800円(当時としては高い!)でしたが1本買って、我慢できずに店 を出てすぐに吹いてみました。吹き方はわからなかったけど大興奮でした。なにしろ外国ではみんなが使ってる本物のハープですから。 


イエナ書店へ行っても写真集や絵本なんかもあって、英語が読めなくても見れるのですがこの頃は洋書がめちゃくちゃ高い。とても買えなくていつも見るだけでし た。洋書ってペラペラと見るだけでも楽しいってわかるでしょ。店内全部が大阪では見れない物の山ですから、気持ち的にはかなり高ぶりました。 


今の大阪ではやっと、ある程度の物が手に入るようになりましたが当時はそれほどの差があったのです。そしてそんな感じで銀座をぶらぶら歩いていると前から向 かってきたのがカルメン・マキ。当時の僕は髪の毛がお尻の当たりまで伸びていたので目立ったのかカルメン・マキとしっかり目が合いました。 


当時カルメン・マキは「時には母のない子のように」が大ヒット中で誰でも知ってる存在でした。あの歌は暗い感じの歌ですが、別にその頃そんな暗い歌ばっかり と言うことはありません。あの曲だけが感じが違って浮いた感じでヒットしてました。寺山修司や唐十郎のような人達が話題になってた頃です。 


いわゆる横文字商売、カメラマン、イラストレーター、スタイリスト、デコレーターなどの英語の新しい職種ができて来て華やかな時代でした。カルメン・マキに してもヒット歌手でありながら天井桟敷の劇団員であることが珍しがられたのです。ハーフであることも話題に一つでした。そんな頃です。 


東京では有名人はよく見かけていたのでカルメン・マキにしても偶然と思っていたのですが、道で見かけた2時間ほどあとで食事にレストランへ入ったらまたそこ にカルメン・マキが。雑誌の取材中のようでした。ただの偶然でしたが、その日の夜に天井桟敷を見る予定だったので先に出会うのが不思議でした。 


天井桟敷が渋谷のどの場所にあったのか思い出せないのですが駅のすぐ近くでした。大きくはないのですが1階は寺山修司が競馬ファンらしくてBGMが競馬中継 という喫茶店でした。当時どこの喫茶店でもオリジナルのマッチをもらえたのですが、この喫茶店のマッチのデザインは横尾忠則。びっくりです。 


地下が劇場になっていて、やっと50人位が入れそうな小さな小屋。真ん中よりやや壁に寄せた小さなリンクがあって、特に舞台らしくはなく、芝居もリンクの下 でも行われます。客席の横あたりに監獄が作ってあって、その中にロックバンドが入ってて、これが芝居用の音楽の生演奏所。かっこよかったです。 



小屋はできたばかりで最初の芝居の「時代は像の背中に乗って」。僕はこの芝居を2回東京へ行って2回見てます。2回見比べるとセリフも自由に変わっていて特 に途中に完全なアドリブの時間があって思い切り笑わされました。天井桟敷の芝居は決してお笑いではなく大阪公演の時はかなりキツい内容でした。 


カルメン・マキは劇団員としてはまだ新人に近い位置でしたが、歌手としてはスターの位置にいましたので芝居中1曲だけ歌いました。「時には母のない子のように」ではなく別のオリジナルっぽい歌です。小屋は小さいので手を伸ばせばカルメン・マキに触れられる距離です。 



当時は時代的に何でも旧式を壊していく破壊の時代でしたので、それまでの芝居とは全く違いました。映画でもフランスのヌーベルバーグの時代でした。とにかく今までのパターンを崩して新しい考えで新しく作って行く時代でしたので若かった僕はバッチリ影響されてしまいました。 


同じ頃、唐十郎が紅テントという小屋をつくったので寺山修司がシャレでお祝いの花のかわりに、お葬式で使うしきびを送って大げんかになったという話も残っています。1階の喫茶店の横尾忠則のマッチもいくつか持っていたのに全部無くしました。今ならいい値段でしょうね。 


下 馬二五七、新高恵子、新宿新次、支那虎などの役者の名前も今でも覚えているので僕には相当の刺激があったようです。日本の映画界でも商業路線から外れた アートシアター系ができ始めてすべての旧文化がガラガラと崩れて新しい世界のひろがることが若かった僕にはゾクゾクする刺激でした。 


今、 ネットでしらべたら芝居のタイトルは「時代はサーカスの象にのって」でした。名前は間違っていたけど意味的には大きく変わってはいないですね。芝居が終わ ると役者全員が小屋の外にでてお客様と握手したりしながら見送っていました。舞台と客席の堺をなくす事が当時の課題だったように思います。 


あ、忘れていました。この時、小屋でカルメン・マキに会ったのがその日3回目の出会いです。小屋で出会うのは当たり前のようですが、スターとなっていたカルメン・マキが出ているという確信がなかったので、僕としてはその日3度目の出会いです。 


カルメン・マキはその後、竹田和夫のブルースクリエーションと一緒に動き、そのままロック界に入っています。ちなみに人気絶頂の頃、ヌード写真を撮っていて、大変にきれいな肌と珍しい体の曲線があって、もう一度見たいと思うのですがグーグルでも出なかったです。
こ の話を続けるとまだまだ続いてしまいますのでこれで終わります。最近、少し前にまた寺山修司ブームがあったようなので書きましたが、天井桟敷の小屋へ行っ た人は大阪ではあまり聞かないです。あ、さっき書き忘れましたが天井桟敷の小屋内部は全面黒色でした。おやすみなさい。


こんばんは。今は明日からの新潟セールのために新潟へ来ています。先日の寺山修司、天井桟敷、カルメン・マキの話を夜中の2時半頃から書いたため、いつも読んで下さってる方々から「知らんかった」と言われてしまいました。 このツイートの下の方にありますので是非読んで下さい。 


明日は早いので今日は短めの話です。以前アメリカ中を買付で回っていた時に聞いた話です。その話だけで今日は終わりますので多分すぐに終わります。 


ワシントン州オリンピアに韓国人の経営するヒップホップ新譜店があってキングコングは新譜はいらないのですが店内の音がめちゃくちゃいい。用事もないのにこ の店には毎回寄って音を楽しんでいました。どんなセットかと見てみるとアンプの上にレコードプレーヤーが付いたただのモジュラーでした。 


壁には安そうなスピーカーが2つあるだけ。それだけなのに低音が壁からドロ〜んと流れ落ちてくる。とにかくアメリカではステレオの音がいい。空気が乾燥して るからとか電圧が高いからと諸説がありますが、レコードを漁りながらいい音を聴くのは実にいいものです。時々手を休めてしまうほどです。 


レコード屋のオーナーはほ大抵は白人。南部を回ると黒人オーナーの店がかなりあって白人オーナーの店とは店の商品構成が全く違う。黒人地域に行くと特にそう なのですがソウルと言う言葉がもう死語なのです。ヒップホップ、R&B、ブルース、ジャズなど。で、今日の話はロス近郊の黒人オーナーの店。 


買付に行っている人はみんな知ってる店で(店名忘れた)ジェネラルケインとかのプロデューサーの経営する店。たまたま行った時、珍しくこのオーナーがいて、事務所でコーヒーをいただきながら話してくれた事。 


今度、新しいレーベルを作るんだ。レーベル名はアウトハウス!君たちはアメリカの歴史を知ってるか?アメリカには昔、奴隷制度があったんだ。農園主の前にボ ロい小屋があってね、そこは仕事が終わると奴隷達が帰る小屋さ。これをアウトハウスって言うんだ。これがね、実にファンキーな場所だったんだ。


僕は黒人関係の本ならかなり沢山読んだ。でもこんな話初めて聞いた。奴隷小屋ってみんな仕事が終わって疲れと辛さでうなだれてぐったりしてるとこって皆さん も思っていませんでしたか?でも本当は夜には歌いまくって、踊りまくって、実にファンキーな、どんちゃん騒ぎの毎晩だったそうです。 


あれ?僕だけなのかな、そんなイメージで奴隷小屋を見てたのは。思えば一日働いて辛い思いの毎日なら、パ〜って発散しないと体も気持ちも楽にならないですよ ね。って、ただそれだけの話題なんですが僕には天地がひっくり返るようなびっくりでした。あれ今日は短く終わってしまったな。おやすみなさい。 


おやすみなさいって書いてしまったけど、要するにこの環境が黒人音楽を歴史的に見ていく上ではとっても大事で、このアウトハウスで後々まで広がる僕たちの大 好きなアメリカ黒人音楽が生まれたんですよ!ルーツはここなんです!こんな話って黒人音楽の好きな方には常識だったんですか?おやすみなさい。 


さてさて、久しぶりの夜のツイートです。今日は早くも10時半よりスタート。初めて見てくれる人は僕のツイートは長くて時間も2〜3時間かかるので、フォ ローボタンを押して明日にでも見て下さい。今日はいつもよりもっともっと古い話でグループサウンズ時代にさかのぼってみます。 


60 年代の音楽シーンって最高に面白かったです。まだアルバム指向はなくって一曲だけを楽しむシングル盤の時代。テレビでも音楽番組はあったけど、なんといっ てもラジオです。洋楽番組は基本的にアメリカのビルボードやキャッシュボックスのチャートを下地に作ってるのでいろんなジャンルでいっぱい! 


僕と同世代ならまず知らないひとはいない「9500万人のポピュラーリクエスト」まだ日本の人口は9500万人だったんですねえ。アメリカのキャッシュボッ クスという音楽雑誌のチャート順にレコードをかけてくれるので憧れのアメリカの最新の音楽が肌にしみ込む。この快感はCIAの仕業だとか。 


60 年代はテレビも夜のゴールデンアワーにアメリカのテレビドラマとかディズニーの番組とかあってラジオもアメリカの音楽ばかり。なんでも戦争が終わってアメ リカが入り込んで来た頃、日本人をアメリカ好きにするためにCIAの操作でテレビもラジオもアメリカ一色にしたと聞いた事があります。 


でも本音で言うと僕なんかはそのおかげでバッチリとアメリカ浸けの充実した時代を送りました。これに同感してる人は多いようで今いっぱいのツイートが届いて ます。笑われそうですが、アメリカ人に生まれたかったという人がかなり多かったんですよ。初期の大阪のアメリカ村の店のオーナーにもいました。 


その頃はラジオの音楽のチャートの上位10位の中にはビートルズありシュプリームスありポールモーリアありベンチャーズもありでした。だから僕たちの世代は ロックもソウルもイージーリスニングも同じように楽しんでました。だからストーンズ派、ビートルズ派なんていう壁はなくてどちらも好きでした。 


10年ほど前に流行ったサバービアというジャンルはこの60年代に流行った音楽で、セルジオメンディスやクロディーヌ・ロンジェはこの頃は普通の人気物です。 セルジオメンディスとブラジル66の来日公演は僕も見てます。キングコングがサバービアの買付に強かったのは僕が当時を知ってたからです。 


ある日、テレビでビートルズが出る番組とベンチャーズが出る番組が同じ時間にあって、朝に新聞でそれを知ってから学校で一日中どっちを見るか悩んでました。 もちろんビデオなんてなかったからです。結局どっちを見たのかは忘れました。ビデオがないとどうやって記録すると思います?写真に撮るのです。 


そこで登場するのがグループサウンズです。洋楽に憧れると自分でもやりたくなるからベンチャーズのマネなんかをする。ギターなんてクラシックギターしか売っ てない。僕も安いクラシックギターを買ってもらいました。だから今のオヤジバンドの人達ってみんな「禁じられた遊び」が弾けると思いますよ。 


何か、すごく昔の話のようでしょ。でもこの時代からフラワー・トラベリン・バンドやサディスティック・ミカ・バンドとかが完全なロックバンドになるまで7〜 8年なんです。この2つのバンド名を書いたのは試行錯誤したライブの音響設備がPA装置の導入で最初に完成した2バンドだからです。 


この時間に書くといろんな知り合いが読んでますね。ツイートいっぱい。さて外国のエレキバンドを真似てグループサウンズが活躍。トップはやっぱり寺内タケシ とブルージーンズ。真似しようと思ってもピックの持ち方が分からない。でテレビを必死に写真に撮る。テケテケが弾けるやつはかなり尊敬された。 


今の日本のロック界の大御所ギタリストの人達の原点は寺内タケシかベンチャーズなのです。憧れの先生はこの人達しかいなかったし、この人達がまた最高にテク ニシャンだった。ノーキー・エドワーズがキャラバン弾きながらサイドギタリストと余裕で笑いながら話をするポーズに憧れムカついた。 


エレキブームが寺内タケシに始まったと思ったらタイガースが現れてグループサウンズはいきなりアイドル路線に。映画のパッチギでオックスを見た人、あれ本当 なんですよ。演奏しながら失神(もちろんフリ)するんです。毎回。それを見てファンが本当に失神する。救急車が来る。映画通りです。 


日劇ウエスタンカーニバルというのがあって、僕なんかより前の世代の内田裕也とかミッキーカーチスのロカビリーの頃のオールスター総出演ショーです。これが 時代変わってグループサウンズ総出演のショーとなって、日劇での出演バンド全部そろって大阪のコマ劇場でやった事があります。ほぼ総出演です。 


中でも最もマイナーな部類の麻生京子とブルーファイアーでリードボーカルだった麻生京子は後のフラワートラベリンバンドの麻生レミです。ダイナマイツでギ ターを弾いてたのは村八分の山口富士夫です。フラワーに入ったり村八分ができたのはこの数年あとです。時代の進むのが早い!だから面白かった。 


ちなみに麻生京子とブルーファイアーはハーマンズ・ハーミッツの「ヘンリー8世」が代表曲でしたが、バブルガムな「ヤミ・ヤミ・ヤミ」を歌った時はかっこよ かったです。山口富士夫のダイナマイツも「トンネル天国」というヒットを出しています。この頃すでにゴールデンカップスの活動が始まってます。 


あの、裏の方でツイートがやかましいです。ちょっとの間違いくらい許して下さい。どうせ僕のツイートは勘違いが多いです。あまり完全に信用しないで下さい ね。雰囲気だけ。こんな話はオヤジが集まると盛り上がるんですよ。そんな仲間には入りたくないとか思いながら自分で書いてるもんなあ。 


梅田コマ劇場でのウエスタンカーニバルは本当にスゴかったです。コマ劇場は回転ステージがあったのでピラミッド式に3〜4段になった円形ステージにバンドが ずらっと並んで回転しながら全員で「ワイプアウト」を弾きながらカーテンが降りる。今思っても信じられないメンバーのショーでした。 


なんとなく書き始めたグループサウンズの話題でしたが僕の記憶にはこの何十倍もの思い出があるので書ききれないです。あ、お客様からご指摘がありました。 さっきの麻生レミがいたのはフラワートラベリンの前身のフラワーズです。確か内田裕也さんが付いてませんでした? リードタンバリンとかで。 


このあとゴールデンカップスとかが現れて一気に本格ロック路線が始まりました。アイドルでなくてもテレビで騒がれる時代に進んでいきます。大阪の戎橋の TSUTAYAの場所に「ナンバ一番」というライブハウスがあってゴールデンカプス見ました。うますぎてまさに失神しそうな凄さでした。 


当然僕たちも洋楽も聞いてますから、このあたりで日本のバンドと並んで聞けるようになります。僕の古いツイート(この一番下の方に残ってます)の村八分やフ ラワーあたりとは丁度このころと合わさってつながって行きます。よかった、なんとか話がつながりました。おやすみなさい。 


この前のツイートで60年代の事とかを書いたら、全面パッチギだって馬鹿にされました。60年代の素晴らしさなんて何もしらないくせに!今日は馬鹿ついでにとりあえずビートルズをお題に思いつくまま、多分また寄り道ばっかりのツイートで。 


ビートルズと言えばオノ・ヨーコですよね、って少し無理ある展開から。数年前に茨城県の水戸でレコードセールやってた時、丁度水戸芸術館でオノ・ヨーコ展が あって初日だったので仕事さぼって見に行きました。この水戸芸術館っていつもやる事が僕の趣味にドンピシャなんです。ジョン・ケージ展とか。 


ジョン・ケージの展覧会って何?って思うでしょうがケージのコレクションの絵とかケージ自身が描いた絵とかを並べて展示してあって、ケージが作ったコンピュー タプログラムでキーを打つと無秩序に絵の順序が出て来る。で一週間ごとにコンピュータの指示に従って並べ変えるチャンスオペレーション。 


運がいいと昨日と今日とで順序の違いを見れるんですが、僕が行った日は運が悪くて無理でした。このケージ展のまえにラッピングアーチストのクリストのイベン トを主催していて、いつも気になる美術館です。そんなとこでまたまたオノ・ヨーコ展、しかも初日に出会うなんて運がよすぎます。 



お昼頃に行ったのでどんなオープニングをやったのか見れなくて残念だったけど本人がいたような様子ではなかったです。かなりのお客さんが入ってて少し驚きま した。オノ・ヨーコが一般的にこんなに人気があるとは思ってなかったです。やっぱりビートルズとかジョン・レノンの人気の傘下なんでしょうね。 


オノ・ヨーコは観念的なアーチストなので、レコードの中に小さな穴の空いたカードが入ってて「この穴から空を見なさい」とか書いてあったのを覚えてる年配の ビートルズファンは多いはずです。ジョン・レノンとの出会いの個展とかで話題だった実物を展示してあるのでサービス良すぎて驚きました。 


脚立を登って天井から吊り下げてある望遠鏡を覗くと遠くにYESと書いてあるのが見える。これがジョンが感動した作品ですよね。ちゃんとこれも展示してある のです。正直な所、僕もかなりミーハーに嬉しくて脚立を登って見ました。YESがちゃんと見えました。顔が真っ赤になるほど嬉しかったです。 


本物のリンゴが置いてあって、ただそれだけなんだけど開館してまだ3時間の頃にはもう半分くらいかじられてました。お客さんも楽しんでます。ヨーコさんは もっと固いのかと思ってたら、とっても楽しいんです。電話が置いてあってその電話にヨーコさんから時々電話がかかってくるのです。待てないです。 


今いろんなツイートが届いていますが、皆さん美術にお詳しいです。僕はただのミーハー美術ファンなので。ここで一番感心したのは、どこの展覧会でも隅で座っ てる女の人。この美術館では座ってない。みんなお客さんに語りかけて説明とかもしてます。観念アーチストだから説明はやっぱりありがたいです。 


確かリンゴは腐っていく様子を眺めるのだと思いますが、お客さんはかじってしまう。でも美術館の人は何も言わない。そんなお客さんの反応こそがヨーコさんの 一番嬉しいとこなんですよね。ジョンとの出会いはそんな楽しいものだったのが真実でしょうね。優しいんですヨーコさんは。 


ジョンもYESがもしNOだったら救われなかったって言ってましたね。レット・イット・ビーではヨーコさんを邪魔者扱いしてるように見えますが、ビートルズの レコードのなかでもヨーコさんが歌ってますからね。ジョンのわがままでならポールは絶対にヨーコさんの歌を入れたりしなかったと思います。 


http://twitpic.com/1e2udm morippiさんありがとうございます。これがさっきのヨーコさんのカードです。少しヨレてるところがとっても嬉しいです。新鮮でしたねこのカード。再度ありがとうございます。多分僕と同年輩であのカードにドキッとした方ですね。一緒です。 


日本人だった事が僕らにとってはやっぱり嬉しくて、ショーン・レノンなんてジョンと日本人の子供だからやっぱり嬉しい。ショーンの知り合いに聞いた話では日 本語は話せないけど理解はできるそうです。ジョンも日本語の勉強してたから生きてたらウイッキーさんの代わりに出てたかもって、ないか。 


レコードの買付でよく行ってたアメリカのレコ屋にトゥー・バージンズのジャケット裏の二人の裸の写真のヨーコさんのお尻のとこに紙が貼ってあって、めくり上 げられるようになってるのに「見るな!吐くぞ」って書いてました。見るわな絶対。このレコ屋、このジャケットだけはいつでも飾ってました。
 

こうやって書いてるとヨーコさんの話題ってあるもんですね。それも楽しいのがいっぱい。今日は横道にそれるどころか最初から違う道走ってます。まあいいか、ビートルズはまた今度で。水戸芸術館の話もどこかへ消えてしまったのでここらで戻ります。 


ほんとに水戸芸術館には感謝。どうしてこんな美術館が今までなかったのか不思議です。ここの美術館と比べられるのは大阪万博くらいなもの。って年配の方には うなずいてくれる方もいると思います。今度は万博の事を書こう。あ、この気の散り方が「かたづけられない症候群」の典型的な症状だそうです。 


水戸でのヨーコさんの展覧会はコースの最後のあたりに広い花畑のような木箱の展示があって、それは初めて見るものでしたが、もうそのあたりでは観念なんて考 えてもいなくて自然に受け入れていました。ヨーコさんってこうやって自分で書きながらも飲み込まれて完全に入り込んでしまってます。凄いです。 


今日はもう終わりますが書いている自分がいい展覧会でも見たあとのようにすがすがしい気分になりました。ビートルズをお題に書き始めたのに結局最後までヨーコさんでした。爽やかな気分でおやすみなさい。